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「「国宝」という語の指す意味は文化財保護法施行(1950年(昭和25年))以前と以後とでは異なっている。文化財保護法施行以前の旧法では「国宝」と「重要文化財」の区別はなく、国指定の有形文化財(美術工芸品および建造物)はすべて「国宝」と称されていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%9D#.E3.80.8C.E6.97.A7.E5.9B.BD.E5.AE.9D.E3.80.8D.E3.81.A8.E3.80.8C.E6.96.B0.E5.9B.BD.E5.AE.9D.E3.80.8D


和歌山県隅田八幡宮伝世の人物画像鏡を例証とさせていただけば、この鏡は国宝制度が始まって初期の国宝指定となったが、実は複製鏡で、元となる舶来鏡ではなかった。なぜ発掘された舶載鏡(はくさいきょう)ではなく隅田八幡の伝世鏡が国宝となってしまったかは疑問の残るところではなかろうか(画像拡大にてご確認されたい)?
この鏡の原型である鏡は大阪府八尾市の郡川古墳群などから発掘されており、隅田の鏡はこれらの画像のいくつかを省略したり、模様が反転したりしていることから、原型を簡略して写したのだろうと言われる。しかしながら刻印された銘文は非常に重要視されたと見え、明治時代に国宝指定された。
神社に参って直接お聞きした。
国宝指定の当時はそれこそ宮司、氏子一同驚天動地の大騒ぎとなったそうだ。まさに青天の霹靂。しかし指定と同時に現物は東京国立博物館に収蔵され、これまでに「里帰り」したのは一回きりだそうだ。このときも上を下への大騒ぎで一同うやうやしく「自費で」「お迎えし」展示されたが、それきり。

銘文にある「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人尊所白上同二百旱所此竟」の年代は現在、「「癸未年」がいつに当たるかについては多くの説があるが、西暦443年とする説、503年とする説が有力である。 」(WIKI)
とされるが、八尾市の郡川古墳群は400年代のものと推定されており、神社では5世紀400年代説をとるようだ。しかし斯麻王を百済武寧王とし、男弟王を継体大王とする説だと年代は6世紀となる。
この銘文の貴重さが当時の明治政府には「緊急に国宝指定し東京国立博物館へ収蔵せねばならなかった」理由だったのだろうか?初期国宝にはなにかしら「どうして?」的な謎がつきまとうものが多い。


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