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大分県日田市・伝東寺ダンワラ古墳出土・金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがん・しゅりゅうもんてっきょう)と金錯鉄帯鈎(きんさくてったいこう)
画像は大分放送出版『大分の古代美術』私家所蔵本から

古墳はすでに昭和初期、国鉄三芳駅および線路架設により紛失。
推定所在住所は大分県日田市大字三芳字刀連町
発掘の詳しい経緯は不明。
ダンワラ古墳から出たとの言い伝えのみ。

日本で出土の帯鈎(漢服用バックル)はこれのほかは現在宮内庁所蔵の岡山県榊山古墳出土の青銅製馬形帯鈎だけ。日本に数点しかない貴重なバックル。金錯とは金象嵌のことである。

一方の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがん・しゅ・りゅうもん・てっきょう)には文字が刻まれている。「長」「宜」「口の中に子(くにがまえに子)」「孫」の四文字である。

金、銀、貴石の数々をちりばめてあり、龍紋、渦雲紋で飾られており、いずれも漢王朝の象徴的文様である。この鏡の伴出品には「貝製雲珠」と「鉄製貝装辻金物」が出ている。いずれも貝殻の真珠光沢のある殻を螺鈿にしたものである。

いずれも中国漢代のものとされ、中国国王が周辺諸国の諸王に下げ渡した権威の遺物であると言われる。

三芳の刃連(ゆき)町には靫負日下部氏がいたと記録がある。日下部氏とは中央における大伴氏の傘下にいた国衙、あるいは郡衙ではなかろうかと言われ、近くにある報恩寺山古墳には多くの古墳群が林立する。時代はおそらく4世紀頃だったと思われる。この鏡がもし、漢から直に下げ渡されたとすれば、吉備地方の榊山古墳の被葬者の存在は、熊本県八代から葦北にいた大伴氏配下の管理者である火の葦北国造アリシトとなんらかの関係が推測される。

日下部氏は近畿地方若狭の籠神社(このじんじゃ)近くにある浦島伝説の浦神社にいた一族でもあったと言われ、浦島が持っている珍彦=椎根津彦的要素と合わせて考えれば、おそらく海部氏に関わる海人族ではないかと思われる。

金象嵌の意匠からはおそらく漢の戦国時代で間違いないと考える。

日田がガランドヤなどの装飾を持つ古墳があること、それが葦北国造の領地周辺や菊池川に多い、「靫」を持つならば、まず十中八九、邪馬台国~倭五王時代に配下であった日下部氏や吉備王家が同じ象徴を下げ渡されたということになり、吉備、日田、葦北、そして中国との外交があったことになる。もちろんこれがもらえた時代が漢代とは限らず、その後の倭五王時代だった可能性はかなり高いだろう。
なぜなら日下部氏の時代はちょうど五王の時代であり、彼等を派遣したと記紀が言うのは応神天皇~雄略天皇時代であるからだ。

従って卑弥呼の鏡としてはやや無理があり、応神天皇以後の河内王朝時代の遺物と考える。
しかし、このような豪華な遺物を、地方官吏だった日下部氏が持っていたことは、やはり阿蘇ピンク石につながる阿蘇凝灰岩の石棺使用による交易は大きく彼等を繁栄させていたことが想像できるだろう。

以上かわかつ