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装飾古墳にはいずれも靫が描かれた古墳が関東から九州一円に見つかる。

「靫を名に負う大伴」と歌人・大伴家持は和歌に詠み込んだ。

そして倭五王時代の軍事的宰相だった大伴氏は靫負部(ゆげいべ)の管理者として西日本一円を管理する大豪族だった。この時、東国の管理者は膳臣(かしわでのおみ)だった。

火の葦北国造という阿蘇ピンク石を切り出せる九州八代の氏族は吉備王の弟だったが、中央からの指示で熊本の葦北に入植したが、彼等は大伴金村大連を「我が君」と呼んで臣下の関係を持っていた。

その葦北国造の領域にこうした靫の装飾が氾濫している。

大分県日田市の東大寺山ダンワラ古墳の被葬者は靫をトーテムとし、そこは靫部の役職名から地名を刃連(ゆき)町と今でも地名が残っている。彼等は中国が臣下の王族に下げ渡す鉄の鏡があった。そして吉備王もまた同じ鏡を持っていた。

葦北国造の息子とされる小さな石棺が阿蘇ピンク石が産出される宇土半島の鴨籠古墳に眠っていた。だから阿蘇ピンク石を切り出せた管理者は葦北国造だったと想定可能である。

推古女帝の息子である竹田皇子の石棺は阿蘇ピンク石でできていた。

吉備造山古墳から阿蘇ピンク石の破片が出た。

摂津高槻市の筑紫津神社の奥に位置する継体大王たちの今城塚古墳からも阿蘇ピンク石石棺の破片が大量に出た。

その後、続々と継体大王の親族の古墳から、倭五王だった允恭大王の培塚や仁賢大王の墓から阿蘇ピンク石石棺が見つかる。

こうして葦北国造が中央から阿蘇ピンク石の管理と切り出しのために送り込まれたことはほぼ確定する。中央の5世紀後半から6世紀の大古墳から阿蘇ピンク石が出てくる。
しかし阿蘇ピンク石は九州の豪族には石棺としては一切使われなかった。
井寺古墳など内陸部の管理者だけが石室に使用した。
最も古い使用例は天草の流沙連(ながされ)古墳石室で4世紀前半。だから100年後になって大和に出現する阿蘇ピンク石は当然、存在を知っていた中央の氏族が取り寄せたブランド石であることになる。

なぜわざわざ指定したか?
不明である。
しかしそこには葦北国造家アリシトと靫負大伴氏の主従関係が確かに存在する。

大伴氏はしかしやがて失政で衰退する。大王は欽明に変わり、蘇我氏が登場する。つまり政治の流れは倭五王から一気に飛鳥王朝へと推移する。考古学上この時代を「大変革時代」と呼び、4世紀とともに大きな謎の変革期と言われている。
こうして阿蘇ピンク石は歴史から消え去ったかのように見えた。
ところが7世紀、継体大王崩御から60年以上経った植山古墳に突然阿蘇ピンク石が出現。蘇我氏出身の推古天皇が崩御した時に、息子の竹田皇子の古墳から新たに造られた推古陵へ移された石棺である。しかしこの石棺はピカピカの新造品だった。つまり移動されるとき改めてわざわざ造られたようなのである。

同じ阿蘇ピンク石の謎の石版が、推古の甥っ子である聖徳太子ゆかりの四天王寺に存在する。

さて?
阿蘇ピンク石はなぜわざわざ九州から大和まで持ってこられたのか?

阿蘇ピンク石は非常にもろい。なにかのきっかけですぐにあっけなく割れてしまう。だから大和の多くの古墳が組み合わせ式石棺である。フタはほぼ一枚石なので割れてしまったので地元の石で代用したようなのである。もちろん最初から氏族間の協力を意図して組み合わせた可能性もあるが。

また阿蘇ピンク石を加工するのは非常に難しく、すぐに壊れるから、できるだけ堅い岩盤から切り取られた。それは岩盤の最下層部まで掘らねばならず、重機のある今でも非常な力と技術を必要とする。実際に見に行ったが、石工さんから聴いた話では、凝灰岩は浅い場所に露頭しており、阿蘇ピンクのような目立つ色の石塊があればすぐにわかる。なぜなら宇土の石切場周辺は古代、縄文海進で遠浅の海だった。すごく目立ったことだろう。この岩場にとりついて岩塊を切り落とし、海岸で筏にくくりつけてほかの場所でくりぬいたり加工したに違いない。そういうお話であった。

最初からこの石はブランドだった。知られていたブランド石だったのだ。

宇土には奇妙な古墳が多い。
石棺内部に菊花紋?があったためにすぐさま埋め戻され宮内省管轄の皇室参考地と格上げされた晩免古墳。ピンク石石切場のすぐ近くである。
フタの全面を直弧紋で厳重に飾られた鴨籠古墳石棺。
火の君の古墳群といわれる城南町の塚原古墳群。ここからは大阪で造られる知事クラスの黒い須恵器の大きな甕が出た。
なぜか石室内部がすすだらけになってしまい装飾がほとんど見えなくなった大野巌古墳は120㍍クラスの大古墳で、近くに中央額田部の馬牧の痕跡が。
そして推古の名前は額田部姫。

こうしたかずかずの謎の影で、九州の装飾古墳壁画はこれまでまったく中央では派代にもならずにいた。それが高松塚から壁画が出たことでにわかに注目されるが、あくまでも「高松塚の秀麗さに比してまったく幼稚で、まるで子供の絵だ」と佐原真教授たちはこれらを無視するならまだしも、実際に幼稚園児の書いた絵と並べて比較し、結局、子供の猿まねとしてしまう。

九州の学者たちは憤ったが、結局、邪馬台国ブーム同様、すべては大和が最初理論の前でマスコミさえ相手にしなかった。

そういう歴史的無念の中で、熊本県が今城塚へ阿蘇ピンク石石棺を60日間もかけて阿船で運んだ。しかしほとんど誰も知らなかった。当の熊本でも、高槻でも、それに難の意味があるかを知らない人が多かった。今でもそうだろう。

歴史的イベントだったが、1500年前に淀川の三嶋にあった港の名前が「筑紫津」だったこと、そこに今もその交流を伝える筑紫津神社が建っていることすら地元民は知らない。

阿蘇ピンク石石棺にはこうした1500年間の九州と大和との・・・地方豪族と中央王族とのえにしが刻み混まれている。そしてそれが消えたとき、時代は大きく動いてきた。これはこれまでわからなかった古墳被葬者決定への大きなヒントとなる遺物である。
しかしながら、研究家も好事家もどこまでピンク石の持っている可能性に気づいていることだろう? マニアは装飾をいくつも見ることに奔走し、歴史学として装飾をかえりみずにいたのではなかろうか?どうせ九州ローカルのマニアックな収集対照に過ぎないと、歴史との照合をおざなりにしてこなかったか?
どうして詳細な分布、詳細な種類分け、詳細な絵柄別の地域での移動などを問題にしないのか?地元がそれで、いったい全国のマニア以外の誰がこの存在を知るのか?
毎年春秋、装飾古墳は地元教育関係の努力で保存公開されてきた。しかし毎年毎年、リピーターは減る一方で、まるで山鹿や田川の温泉街さながら、地元もやる気をなくしている。遠くから来た見学者にはるか離れた駐車場を指示し、本人たちは机にすわっている。見せてやる。そういうことらしい。
しかも本人たちもほとんど古墳の知識がない。
知識があるのは現場にはりついた専門家の若い解説者だけだ。
そんなことならやめてしまったほうがいい。
写真で見た方がよほどよくわかる古墳も多い。
高い金を払って電車や車で駆けつける、そんなマニアをおざなりにし、足腰をいたくさせて平気な権威たち。もちろんそんな人々ばかりではないが・・・。

九州が九州の首をしめていったいどうするのだろうか。

「来なければ良かった」すれ違った関東弁がそうつぶやくのを風のかなたに聴いた。


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