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1 なにゆえに装飾古墳を持つ九州の氏族が多氏と同じ神八井耳を祖神とし、なおかつ神武直系を自称したか?

2 なぜ焼畑地帯に貴種流離譚(落人伝承)が多いのか?

3 なぜ過去大豪族だった歴史的敗残者たちが焼畑地帯に入り懐良親王(かねなが・しんのう)らの子孫と言い続けたか?

4 筑紫君磐井が敗れる6世紀中盤前から阿蘇ピンク石石棺が一気に出現し、産地である宇土半島以南に中央の靫負大伴氏を「我が君」と仰いだ火の葦北国造がおおきく繁栄し、そして磐井の乱後、突然阿蘇の石は使われなくなる。これはなにを意味するのか?そのあと大和ではなにが起きていたか?継体大王とその皇子たちが死んだと「百済本紀」が書き残し、摂津の淀川に今城塚古墳が出現、時代は欽明へ。そして今城塚の中から継体時代最後の阿蘇ピンク石が出てきた・・・・。

5 倭五王の4~5中盤まで、菊池川産灰色凝灰岩石棺が独占した畿内の古墳。それが装飾の衰退を契機に、一気に宇土の石に変化。その後、磐井の乱、大伴氏の失政があって物部氏や蘇我氏が強大化。とたんに阿蘇ピンク石石棺は消え去り、葦北国造も百済も衰退。継体に代わって蘇我氏と欽明出現。この謎は?

かわかつだけが気が付いたのだろうか?
誰かいないか?いなければ、この理論はかわかつオリジナルとなってしまう。
多くの学者がこれまで考えてきた。いないはずはない。


今後は九州の装飾の詳細な変遷と、石人・石馬が九州王族のランドマークだったことを証明する。時間がかかる仕事である。分布図と装飾比較と、装飾のオブジェのひとうてぃとつに当たらねばならない。装飾古墳研究家の協力が必要である。画期的な装飾古墳認識の回復につながる大事業となるだろう。