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先日10月19日、こうやの宮のある太神地域一帯では水神の祭りがあったそうである。
電話で確認したところ鍵をあづかっている方から聴いた話である。
毎年10月19日に、近隣の釣天宮などの水神や恵比須を祭るお宮が合同で行われるそうで、9時ころから始まって宮司さんの祝詞などが執り行われる。午前中行事。

女山(ぞやま)までは行けたのだが、何年ぶりのことであったため手間取り、祭りのこととて鍵管理のかたに連絡がつかず結局こうやの宮は見られなかった。あちらは大変親切な方で、今度は是非おいでくださいとのことだった。こうやの宮人形は連絡すればいつでも見られますとのことであったので安心した。

この人形は異人風の人物が、なぜか百済から送られた七支刀(しちしとう)を持っていることで知られているが、その由来はなにもわかっていない。
有明海沿岸の筑後~八代にかけては百済が予備の港としていたと想像できる。葦北国造との関係からだろう。
学者たちは装飾古墳を筑紫君のシンボルだと思いこんで、そこから出ようとしないが、むしろ有明文化圏全体の問題だと見える。
菊池川沿岸の装飾がチブサンに代表される赤と黒、白と緑などの統一イメージで構成されるわけだが、それらrとまったく同系統のレリーフ装飾を持つ横穴古墳は、なぜかぐっと南下した球磨川流域にも見られ、すべて弓と矢と靫、馬、が刻まれるのだから、菊池川の火の中君の南下(あるいは北上)があったと考えるのが当然だろう。大和の凝灰岩石棺編年からも菊池の灰色石の時代がたしかに存在する。
その後宇土の灰色石が現れて、時代はピンク石へと移行し、菊池は衰退、代わって宇土が繁栄したと思われ、宇土は葦北国造の領域なのである。そこに以前からいたのが火の君である。火の君と火の中の君をわけて考えねば、この力関係は理解できまい。

中の君は玉名に中地名があり、そこにある石疋野神社が石を引いた事実を社伝に持つことはすでに私にはわかっている。玉名から菊池側沿岸の装飾古墳がみなチブサンや大坊や弁慶ヶ穴や永安寺東など、同じ色彩と模様を共有するとなればその時代の氏族は中の君しかありえないわけだ。

しかも筑紫君の領域である高良大社以南の矢部川北部・八女・久留米にそのような装飾は見られないように感じる。さらに筑紫君の名にもかかわらず彼等が筑前にはあまり関わらず、装飾古墳も筑前にはぐっと少ないことから見ても、装飾古墳は熊本の氏族メインだったことが想定されて当然だったはずだ。

阿蘇ピンク石を切り出す氏族と装飾古墳はリンクするのだ。それは葦北国造に管理された日下部氏や額田部や火の君たちが北上し、菊池を凌駕してゆく歴史を如実に語っている。

そこにある百済からの人形こそは、瀬高に港があり、海が今より迫っていて、女山近くまで瀬が高かったから瀬高であって、まさにそこに神護石(朝鮮式山城)があることからも大事な守りの場所だったこともわかるわけだ。
百済がここを欲しがるのは当然である。
だからこそ石上の七支刀は一度ここに上陸し、ここで授受があって、大和へ運ばれたと考えるのが正しいとかわかつは主張する。
以上転載不可。