筑紫の水沼君 つくしのみぬまのきみ

「旧事本記」に「水間君の祖、物部阿遅古連あじこのむらじ」
とある。

日本書紀には 『即ち日神の生(あ)れませる三(みはしら)の女神(ひめかみ)を以ては、葦原中國の宇佐嶋に隆(あまくだ)り居(ま)さしむ。今、海の北の道の中に在(ま)す。號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す。此筑紫の水沼君等の祭(いつきまつ)る神、是なり』 とある。

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かわかつ流解釈

しかし物部阿遅古連は大連物部麁鹿火あらかいの弟であるから、時代は継体~欽明の頃になる。
「日本書紀」では物部麁鹿火は磐井と戦った将軍であり、その時代はやはり継体~欽明(ほぼ欽明が継体に取って代わっていた時代のはず)。となるとそれよりずっと以前の景行紀に現れる水沼君の祖先が磐井の乱以降九州に居残った物部の子孫であり得るはずがないのだが、ここには日本書紀の時代操作が隠されているだろう。
 『水沼君』についは、これ以前の「景行紀18年条」の『水沼県主』や、「雄略紀10年条」の『水間君』もそれとされ、 『水間君の本拠地』らしく『筑後国三潴(みずま)郡』が、中世『筑後屈指の名族・蒲池氏』が支配するところとなったとされる。

  蒲池氏は中世に三潴郡に入った郡司であるから、蒲池という地元の地名を名乗っただけの中央からの派遣氏族と考えられる。それが地元蒲池の阿蘇の女神蒲池姫神話を取り込んで在地化する。

身沙村主青の持ち帰ったオオガリという珍鳥を水沼君の犬が噛み殺すという日本書紀の記述は、犬=鉱物氏族としての水沼君の権力(ひいては筑紫の独善)を中央が恐れてわざわざ磐井の乱以前の場所に書き残したのであり、それは欽明の磐井征伐を暗に正当化したい藤原政権の意向が書かせた記事だと考えた方がよいだろう。

宗像三女神を水沼君が祭るというのも、本来の宗像氏の元にいた阿曇、久米たちの信仰を宇佐に移すための口実に過ぎないだろう。

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忠告1 氏族と国衙、郡司の氏姓を混同する事なかれ。
忠告2 部と氏を混同するなかれ。
忠告3 国衙、県主、国造、山部など、あきらかに中央が派遣した役人を正しく把握せよ。
忠告4 その中には在地の君が兼任した場合もあるが、ほとんどはよそ者である。

例えば高橋氏や菊池氏、日下部、山部などを地名から判断して在地豪族だとしたい考察がネット上に多々見られるが、勘違いだといってよいだろう。日下部や山部は国家公務員的役職名である。
まず今の現地の人々と江戸時代以前の住人にはなんの関係もあり得ないことを念頭におくべきだ。そう考えれば地元一番的ミニチュア・ナショナリズム・・・古い幕藩思想の呪縛から逃れられる。

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大猿海という人物と水沼君の墓所や血縁関係が混同されたのも在地のさまざまな願望が作話させたのだろう。
結論、水沼君は継体~欽明の6世紀中盤以降、太宰府に入った管理者だったのではあるまいか。
もとい!訂正します。水沼君は筑紫君旧態残存勢力をる象徴する創作。水間君が在地豪族。

このように記紀の「嘘」や奈良、平安、中世以降の付会などにだまされない考え方がよいように思える。