木斤資・木満到(もくらこんし・もくらまんち)
●神功皇后紀62年(382年?)倭の沙至比跪(さちひこ)が北加羅を蹂躙して新羅を利する行為に走ったので、百済の木斤資がこれを駆逐し王政復古した。
●応神天皇紀25年(414?)の『百済紀』引用文 木斤資が新羅を攻撃したときに新羅の女性との間に生まれた子が木満到。任那専権。百済に入り倭国とのあいだを行き来した。倭王の指示を受け百済国政に影響力を持った。権勢は比類なし。しかしながら倭王、満到を呼び寄せた。
●509年、倭王は久羅麻到支弥(くらまちのきみ)を百済へ派遣。
時代的に飛んでいるが、くらまちの「くら」が鞍作で、「まち」が満到なら木満到のことになるが?
一説では蘇我満智(そがのまち)の別名と言われる。
蘇我氏は木氏とは武内宿祢を通じて同族である。渡来系。
蘇我満智の子孫が馬子、蝦夷、入鹿である。この説は昔からある。
一説では蘇我満智(そがのまち)の別名と言われる。
蘇我氏は木氏とは武内宿祢を通じて同族である。渡来系。
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