これまで主にかわかつワールドブログに展開してきた阿蘇ピンク石石棺と大和王権の関わり、そこから導き出されるはずの北部九州と日本王権国家との深い結びつきについての考察であるが、今後、さらに詳細な分析と文献資料との照合をこの書庫を借りていっそう細かく展開してみたいと思う。
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ピンク石が使われる継体大王前後の時代~欽明時代までのもっと以前から、はるかな阿蘇から運ばれた石棺が存在する。いわゆる阿蘇凝灰岩灰色石石棺である。
灰色石には熊本県氷川産のものと、阿蘇山北部に位置する菊池川産のものの二種がある。

大和や河内の王権が石棺の石を選ぶなら、遠く離れた九州の、しかも瀬戸内航路で比較的往来しやすい北部九州よりもさらに奥地にある八代海経由や、九州島の中央部にある菊池川流域から、わざわざ凝灰岩を取り寄せる行為はとてつもないリスクと経費がかかったはずである。

①阿蘇の石以前には近郊の二上山、あるいは兵庫県函南竜山(たつやま)などから運ばれた「ブランド石」が使われている。また東国、筑波山の花崗岩や安山岩、あるいは緑泥岩も使われていることもある。凝灰岩がよいとするならば火山列島日本ならば溶岩が固まった凝灰岩は場所を選ばずたくさんあったはずである。なぜ阿蘇からなのか。
②そしてなぜ旧推古、竹田陵であった大野の陵(推定現植山古墳)がこの石を使い、さらに後年、ここから遺骸を志長の現推古・竹田陵へと移したのか。
③阿蘇ピンク石の成分は?これを知ればほかにもピンク石が使われた遺跡、遺物、遺構が見つかる可能性がある。
などの疑問をすこしづつ考察してみよう。

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すべての始まりは4世紀から。
京都府八幡市にある八幡茶臼山古墳に使われた氷川産阿蘇灰色石から始まる。
阿蘇と畿内との石でつながる相関関係は、倭の五王の時代にすでに開始されていた。
それが文献に反映されたと思われるのが、日本書紀神功皇后紀の記事である。
神功皇后は倭五王に比定される応神王朝の産みの親とされ、応神を生む前に吉備に立ち寄る。
そこにいた吉備の大王的人物の親族であった鴨分という人物に火の国造となって有明海沿岸を管理するように指示したと書かれている。

八幡市の八幡茶臼山から世紀をわずかにこえた5世紀初頭、次に兵庫県に灰色石が現れる。
竜山石の産地である兵庫県たつの市御津にある朝臣一号墳の石棺に氷川産灰色石が使われた。

つづいて五世紀後半の讃岐。
香川県高松市長崎鼻石棺と観音寺丸山古墳石棺。
ほとんど同じ頃、同じ讃岐青塚石棺、伊予蓮華寺石棺。そして五世紀末には灰色石石棺は吉備に近い備前岡山赤磐郡の小山古墳に出現する。これらのすべてが今度は熊本県菊池川産灰色石で作られていた。
しかも形式は熊本県江田舩山古墳と同じ舟形石棺である。
江田船山は倭王武(雄略大王に比定)=ワカタケル銘の刻まれた鉄剣を持っていた。

ピンク石が発見されるまで、阿蘇の灰色石は雄略をはじめとする倭王の一族を代表する石だったと考えられるのである。

この流れが、やがて倭王の血脈と名乗る継体大王の氏族へと引き継がれ、ピンク石石棺へと至るのである。

岡山まで広がった阿蘇石の流れと、在地吉備の鴨分が火の国造になったことは、あきらかに関連しているだろう。そしてそれが雄略の倭王の王権でのことだったことは古墳の年代を考えればはっきりとしている。少なくとも雄略の数代前の倭王の時代から阿蘇と畿内は灰色石で結ばれていた。


すなわち阿蘇凝灰岩は大和王朝のひとつ前の「王朝」の象徴だったのである。


言い換えると応神王朝と九州八代海沿岸地域は強力な協力関係を結んでいたと考えていいことになる。