なぜイケニヘであって、イキニヘではないのか?
これについては古くは折口信夫が、新しくは西郷信綱が考察している。
生け贄の「イケ」とは生け簀、生け花などの慣用語があって、「生ける」であるから、その意味は「生かしておく」である。
対して「生き贄」ならば自動詞で「生きている、生きたまま」である。
生け贄の真義に近いのは「生き贄」ではないか?と彼らは疑問を持つのだ。

しかしながら生け贄の実態は、実は生かしておいてから神の食物となるである。
決して生きたまんま餌となるのではない。
一年ばかり生かしておいて、太らせた後、贄となった。
だから「生け贄」でよいわけだと小松和彦も書いている(2001)。

では「贄」とはなにか?

各地の最近までの風習から推測できるのは、災厄を呼ぶ祟り神から村などを救うための食物。
もちろん神に実態もなく、神がものを食うはずもないが、祟りの来訪を防ぐために人命を捧げる。これすなわち犠牲。

さて、ここに不思議な進化の逆行がある。
先土器時代、縄文時代・・・人々は犠牲を捧げたのだろうか?
そう、では発掘されるおびただしい土偶や土器偶像物はいったいなんなのか?
あれらが犠牲の代用品でなければ、なんなのかという素朴な疑問である。
スサノオの昔から、日本人は生け贄を祟り神に捧げていたと記紀は書いているにもかかわらず、もっとも昔の、野蛮で粗野で、送れた民族であったはずの先土器人、縄文人たちはちゃんと身代わりを立てている。これ進化の逆行といわずしてなんぞや?

弥生人が身代わりの埴輪を考案するのは、ずいぶん遅れて古墳時代だと記紀は書いている。
それも遅れた国家、平定された国家があった出雲から、その知識を入手したとも書いている。

これでおわかりのように弥生人は物質文化に進んでいたが、哲学ではまったく幼稚。
それは彼らがいくさを好み、物質にこだわる即物的性格だったからではなかろうか?
大陸の誰か、この国の誰か、あるいは今の大都市の誰かにあまりにも似ていると思われまいか?
精神性を捨てた時、自然の資源は枯渇する。
今日もガソリンが10円あがったそうだ。
おもろー!と笑っていていいのか?