弥生時代の北部九州にいちはやく副葬品をもてる被葬者が登場したのか?
これは現代の階層社会の始まりを考える上でも非常に重要な疑問ではなかろうか。

首長クラスの豪族たちはなぜ、どうやって富を手に入れたのか?
通説は稲作技術の発達によって固定の安定供給が可能になり富が増えたというのであるが、考古学的にはそうはならなかった。
水田は当初から整然として、灌漑設備を備えていたのだ。
福岡県板付遺跡、佐賀県菜畑遺跡などの初期水田はこれまで言われてきたような当初は湿潤な沼地ににわか作りされたものなどではなく、最初から中国南部の6000年前からの技術が入っており、決して原始的水田が発達してそうなったのではなく、はじめから最新技術が導入できた者が造営したものだったのだと広瀬和雄は書いている(2003)。
そしてこれらの水田遺構は列島で最古の遺跡なのである。

つまり稲作から富みが生まれたのではなく、それ以前から貧富があったのではないかと言うわけである。

確かに石製武器は水田よりも早くから副葬され始めている。
武器を豪華な墓に入れてもらえるということはすでに豪族の片鱗にほかならない。

しかし弥生時代の倉は穀物の一時的収納場所であり、言われているような余剰備蓄ではなかった。
この米は交易の道具ともなった。物々交換によって富は集積した。
けれどそれだけでは巨大なリーダーには成り得なかったと思われる。

参考文献 広瀬和雄『前方後円墳国家』

ではなぜこのような貧富が生じるのか?

①類人猿の仲間であるヒトは本来リーダーを必要とする
②テリトリーの中で自然にリーダーを選んできた
③その「ボスざる」がやがて貿易を始めて権威が増大する
④おのずと物品、人が集まり始める
⑤他の集団と争い始める
⑥勝てば勢力増大、負ければ賊軍である
⑦雪だるま式にリーダーシップ、さらに呪力がプラスされカリスマとなる
⑧あとは推して知るべし
さて?
米はきっかけのひとつに過ぎなかったようである。