①殺傷された人骨は新町24号人骨(福岡県志摩町、伊都国比定地)などに示されるように(弥生)早期末に出現する。

②早期前半には有柄式磨製石剣や柳葉式磨製石鏃(画像と解説→http://inoues.net/ruins/sito_sisekibo.html 
BGMありご注意!! 
http://www.d-munahaku.com/search/ichiran.jsp?searchstr=%96%81%90%BB%90%CE%8C%95

・・・(ともに弥生文化成立当初から存在した石製武器・かわかつ筆)・・・などの完成品が出る。これが早期末になると棺の中から出るようになるから、これが武器の副葬の始まりだとされる。→つまり墳墓に武器を副葬する習慣は鏡などの埋葬と同じく北部九州伊都国や奴国から始まり東へ伝播で確定。前方後円墳時代もこれを踏襲。
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ただし、これらがすでに戦闘用であったかどうかは、当初発掘では、生活遺跡から多かったために、いまだ確定できないらしい。鏃は狩猟用であったかも知れない。しかし剣は敏捷な日本の小動物の狩猟には重すぎると思う。とどめを指す道具かも知れないが、それならナイフでも事足りる。
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③環濠集落は弥生文化開始当初のものはない。
④早期末に出現し
⑤犠牲者も出現
⑥これは武器副葬の開始時期に一致する。

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稲作の発達が米倉を持たせる。
倉遺跡の出現はそのままプレ国家(大集落)を形成するきっかけとなり、他の集団との戦乱もこれに始まる。稲作は戦闘用武器に先行する・・・はずであるが、実は武器のほうがずいぶん古くからある。
稲作は弥生時代に入ってすぐに定着したわけではなく、縄文的狩猟とかなりの長きにわたり共存する。
だから武器と戦争はすぐには結びつかない。狩猟や小競り合いに用いられたのだろう。
かなりの集団がクニを持って始めて「戦争」の規模になった。

前期後半から中期前半にかけて壮烈ないくさが始まる。
弓矢でいかけ、剣でとどめを刺し、首級を切り取る。(実例・宇木汲田・石崎曲り田、三雲各遺跡の甕棺に埋葬されたたくさんの首なし被葬者)

ちなみに鳥取県青谷上寺地の殺傷人骨から出てくる銅鏃は、壱岐原の辻と同系列とされている。
その原の辻の銅鏃は春日市須玖岡本周辺で鋳造されていたと考えられている。
これを持って青谷上寺地の戦争痕跡が倭国大乱を反映したものだと橋口達也は考えておられる(2007)。
参考文献 前出『弥生時代の戦い』および広瀬和雄『前方後円墳国家』角川選書 2003

だんだん邪馬台国が見えてきましたか?