3世紀前後の弥生時代の集団同士の争いの痕跡を証明できる遺物
①防御施設(防壁・柵・壕など)を持った集落遺跡
②武器遺物
③殺傷痕のある人骨

④墳墓における武器副葬
⑤武器型祭器
⑥戦いを表す造形品、あるいは装飾そのもの

以上が発掘された場合、それは戦争の痕跡であると国立民俗博物館は示唆、仮定している(1996)。
私的には④⑤⑥については、厳密には断定できないだろうと思う。
なぜなら、武器型造形物や絵画はどこかで見てきた印象を書いたかも知れないし、武具の副葬は権威に終わったかも知れないからだ。
一番重要なのは①②③であろう。
さらに付け加えるならば、武器遺物を製作したと断定できる加工場遺跡が周辺にあれば確定的であろうが、そういう施設は戦場や集落と同居しないのが常である。武器生産工場というものは大規模な田畑と地域を隣接はするが、都市機能としては「ムラ」から隔離されることが多くなる。移動の時代や、集落がまだ小さく、近隣との小競り合い程度の争いの時代にはムラに含まれていた機能が、集落の定着と発達につれて専業化していったと考えられる。

ではそれらが発掘される場所がそのまま戦場となったかと言うと、そうではなく、1~3世紀に限って考えると、発掘からは、戦場は山陰から玄界灘沿岸・・・すなわち遠賀川以東の日本海側であるという。
その中で『倭人伝』の「倭国大乱」に相当できる地域を九州歴史資料館の橋口達也参事補佐は鳥取県青谷上寺地(あおやかみじぢ)遺跡を候補にしておられる(2007)。
この遺跡から出てくる異常な殺傷人骨は戦乱によるものであることは疑いないと井上貴央、松本充香両氏は鳥取県教育文化財団調査報告書で書いている(2002)。

現時点での想定であるが、青谷上寺地遺跡が倭国大乱の最有力候補であるとしておきたい。

となると・・・。
狗奴国とは山陰にあったのだろうか?
であるなら、当時の中国の地図感が日本列島を逆さまにとらえていたという推測はあながち荒唐無稽ではなうなるのかも知れない。

いずれにせよ、逆に考えれば、狗奴国の比定地候補にはこうした殺傷痕跡がなければならなくなる。
南九州や熊野などにそれが出てくるのかどうか。

青谷上寺地は北部九州にあった奴国あるいは伊都国などの先進プレ国家と山陰がいくさをしたという証拠である。
それは一部の畿内学派が言う、大和対北部九州の大乱かどうかはわからない。
日本の文献には出雲と崇神の相克が描かれてはいるが、それはあくまで神話の域を出ず、吉備ほどのリアルさはない。
大和から殺傷人骨が出たならばそれも考えられようが、今のところそれらの多くは現地山陰と福岡県地域に限られているようである。
現時点では倭人伝の時代、大和は大乱を起こすほどの武力をいまだ持たないと言うしかなく、山陰には大量の武器が出ている。
今後の発掘次第ではあるが、やはり唐古・鍵遺跡という祭祀都市が現れるきっかけが卑弥呼の共立と死であったとすると、大和はまず瀬戸内~東海までの共栄祭祀都市だったと考えられ、それが門戸を閉めた北部九州と対立関係にあったと考えるのは確かにわかりやすいが、確定したとはまだ言えない。
大和から山陰に出張ってきた戦闘員がもしあったなら、殺傷人骨が大和に帰らなかったのは奇妙である。北部九州からは大量の遺骸が葬送されていた甕棺が出てくる。だから、大乱の片方は彼らだったことは間違いない。しかし山陰の遺骨たちがどこから来たのか、あるいは現地人だったのかはまだ確定できない。

出雲が文献の中で「黄泉国」と表現される理由は、もしかすると、東の大和から見て、過去の戦争死亡者を埋めた場所という認識だったと考えると、文献と考古遺物が合致して、大和学派は大いにうれしがるに違いない。
さて?

参考文献 橋口達也『弥生時代の戦い 戦いの実態と権力機構の生成』雄山閣 2007