2008年までの最新考古学での「古墳」の規定はほぼつぎのような概略で把握されているようである。

●少なくとも2世紀後期に造営が始まり7世紀までに続いた、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などの総称。
●これ以外は「墳丘墓」と呼ばれる。たとえば四隅突出型墳丘墓、方形周溝墓などは墳丘墓である。

古墳の成立までの流れは、今のところこの墳丘墓に始まるとされ、日本海沿岸の出雲地方から若狭を飛び越えて越前に至る海岸部における四隅突出型墓や九州~瀬戸内~畿内に点在する方形周溝墓の墳丘形式が発展し、特に2世紀から吉備地方の盾築遺跡の、双方に細長い長方形の張り出しを持つ墳丘墓(盾築式墳丘墓)の形式が試みられたのち、奈良県纒向古墳群~大和古墳群へと時代を経ながら前方後円墳、前方後方墳へと急激に変貌した。
大陸では、ちょうど時を同じくして墳墓の意匠技術が急速に発達しているが巨大化の方向よりも精妙厳粛な積み石による建造物へと行ったのに対し、列島だけが土盛りによる巨大化という、異質の権威主義へと歩き始めたことが特徴的である。
残念ながら列島の古墳は、広大な敷地面積以外には技術的な進歩がなかったというのが現在の認識になっている。エジプトのピラミッドや高句麗の精巧な石のブロックを積み上げた王墓のような進んだ構造は作り得ず、ふきいしと版築による従来のままの構造を巨大化して見せる手段しかなかったようだというのが現在の古墳の評価であるらしい。

4世紀終盤から6世紀にかけて地方では新たな権威付けの手段として、石室内部に装飾を施すようになる。特に北部九州、熊本県~福岡県~東国・東北にまで分布する「装飾古墳」と呼ばれるものと、7世紀大和の一部における高松塚、キトラ古墳の高麗的画風の壁画古墳がこれにあたる。
これによってそれまでの巨大化は消滅し、古墳は新しい時代を迎えた。大陸的文明型文化がようやく西日本を中心とする列島に根付き始めたのである。

古墳の歴史をたどって編年化することによって、大和での中央集権的古代国家の成立がいつ頃だったかが想定できるだろう。それは製鉄の大和地方での一般化と比例して、およそ5世紀後半~6世紀初頭に想定できるだろう。

こうしてみると2世紀にさかのぼれると言われ始めた大和古墳群の一部が存在する纒向周辺に、突然300メートルクラスの箸墓が出現したことは実に不可思議なことに気がつくはずだ。
たとえば河内や吉備の大古墳は箸墓よりずっとあとの5世紀のものである。
大古墳が同時に完成したと思うのは間違いで、箸墓だけがなぜか2世紀終末期に忽然とできあがったと、今の学説は言っているのである。箸墓から大山陵までの間には、畿内には100メートルクラスの(実用的)古墳の歴史が続いている。そしてぐっと離れた吉備になぜか二つの巨大古墳。
箸墓造営からおよそ300年間、なぜほかには作られなかったか?
また、なぜ海から見えたであろう河内の海岸沿いや吉備の海岸沿いに300年も経って突然、絵に描いたような巨大な古墳が登場したか?
それは大陸の歴史が教えてくれるのではなかろうか?
これを学者は「モニュメント」だと言っている。
モニュメントとはなんだろう?
それは誰かがそれを見て驚嘆したり、権威を感じ取るための「偶像」であるという意味だろう。
宮崎県の西都原にある二つの巨大古墳もある種のモニュメントなのだろうか?
そして思うのは、それらのモニュメント古墳の多くは発掘できないという現実である。

果たして中身があるのかないのか。それは後世にゆだねられる。
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いずれにせよ古墳の分布図を眺めれば一目瞭然、それらは平野に作られている。そのわけは?