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技術国家といわれる一世紀の北部九州で、特にふたつの地域にだけ巨大な首長のめばえがあった。
ひとつは福岡県春日市、奴国の丘歴史公園内にある須玖岡本(すぐおかもと)遺跡、今ひとつは糸島半島前原市の三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡である。

おそらく日本最初の「王」がふたり、ここに眠っていると推定される。

●このふたりの王は、中国と交流があった。
●前漢時代の舶来品を多数輩出する墓に祀られた。
●とくに須玖岡本の首長は、中国の当時権威的な鏡である草葉文鏡(そうようもんきょう)をもらっている。
●一方三雲南小路の人物は中国から鏡を35面、金メッキ青銅製の棺金具をもらっている。
●この金具は木管用であるが、中国の有力者が用いるもので、当時は甕棺葬だったため使い方がなく、仕方なく副葬された。
●この二人以外に、当時のテクノポリス(最新技術都市)だった九州の大王クラスの人物は存在していない。
●ゆえにどちらかが金印をもらった奴国王であるが、それは糸島半島であった金印発見の、江戸時代の話が真実であるならば、奴国の丘・須玖岡本の草葉文鏡をもらった人物と断定可能である。

ここが弥生時代最初の国家の誕生地である。

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その前の紀元前4世紀頃、吉武高木にはすでに武器を持つ一軍が最古の王国、集落を形成していた。
ここが日本最古のプレ国家と呼べる弥生集落である。

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さらに、中国から日本に武器が届く最古の時代となると紀元前8~7世紀と言われている。
現在の発掘からはそうなっている。今後の発掘次第ではもっと古い遺跡がでるかも知れないが、まずこれが今のところ決定している。

岡山大学准教授の松木武彦氏はこの武器と中国鏡に代表される日本最古の時代の動きを一言で「文明」型文化の初来日と呼んでいる。
これは非常に大切な日本の国家形成の始まりを示す言葉である。

①北部九州奴国周辺諸国は紀元前から中国漢王朝などと交易していた。→どうやって?船で。誰の?倭人=海人の。このとき宗教、民間信仰などの観念的流入も起こった。
②大量の武器が紀元前から北部九州には届いていた。→どんな?実用品としての銅剣、銅矛。
なぜいるの?九州玄界灘沿岸でいくさがあるから。
どうして戦争が?いくつもの先進技術で進んだ地域、集落が拮抗し、勢力争いをしたから。
どうしてそんなことがわかるの?戦場の痕跡がある遺跡からは鏃や矛で骨折したり傷ついた遺体が出てきて、そこにはちゃんと武器が残っていたから。

③この戦場遺跡は那の津・玄界灘沿岸と山口県豊浦海岸一帯から出てくる。日本ではここだけ。蝦夷のいた東北、東海、近畿ではまず出てこない。実用に耐えうる武器も一切出ない。かわりに祭祀に用いた銅鐸が出る。
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先進技術=科学力が戦争の原因となったのである。もっとも拮抗する勢力は道具がなければ石を持ってでも争うのが動物の時代から決まっている。科学は常にその片棒を担ぐが、おかげで文明は発達したからよしあしなのは否めない。それは今後も変わらないのだ。残念ながら。だから人類は未だサルと言うしかない。
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文明型文化とは?
それは簡単に言えば中国やフランスの歴史を見ればわかる。
争い、競い合って淘汰された「王」が国家を集約してゆく課程に起因した発達である。
われわれが今いる世界がそのような「血であがなわれた平和」の上に成り立っていることを歴史学はもっとも大切な道徳として教えてくれるのである。
おそらく歴史学のもっとも重要な役目は「歴史への反省」ではあるまいか?歴史はいつも反面教師。学ぶことはすなわち反省と応用。
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なぜ九州と山陰だけが争ったのか?
そしてその後なぜ繁栄が止まったのか?
ここが古代史最大の問題であろう。
参考にしたいのが上古の大和朝廷が何度も移動することであろう。
遷都もまた同じ。
同じ理由で移動する。そしてそれは地域氏族の合意によって行われるのであろう。
と言うことは戦争にいつかは嫌気がさすということになるだろう。
「なぜ戦争は終わらないの?」ではなく、「戦争と平和を繰り返して人類は進化する生き物」だということになるのである。平和ばかりが続くと進化できないし、いくさばかりでは滅びてしまう。
動物は増えすぎると自ら子孫を減らすために工夫する。そのかわりなのである。
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さて、それよりも九州はどこへいったのか?
吉備方面、瀬戸内を通って住之江に到達したか?
ヒントとなる事柄はは戦争忌避という観念的なことよりも、具体的な発掘物からわかるのである。
住之江は昔、那の津だった。
そう博多湾と同じ名前である。そこに九州の古い土器が散乱している地域がある。
大和川水系の石川(のちに蘇我氏本拠地)が作り出す当時の三角州地帯である瓜生堂である。
ここから出る土器の形式だけが大阪では遠賀川式なのだ。
今ここはもう陸地である。南区久宝寺にほど近い、ここまで海が来ていたのだ。
このデルタの外側からは遅れた縄文系土器しか出てこない。
ここが近畿の最古の港なのである。
従ってここから近畿の歴史は始まったと言ってよいかも知れない。
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これは東遷などという大それた移動ではない。
ある九州の少数の氏族が引っ越してきたか、あるいは九州で遠賀川土器をちゃんと習ったものが帰って来たか、しかない。
地名を見ると山賀がある。恩地がある。羽曳野丘陵のはじっこに彼らが最初に来たときのことは記紀記述のニギハヤヒ物部の神武恭順記事があるが、そのような大きな痕跡など今のところない。近畿にはあらそいの痕跡がないのだから、ここで物部氏との拮抗などあり得ないだろう。
当時の近畿は東国のはじっこである。いまだ縄文である。
それは記紀のナガスネヒコや吉野の井光に一致する。
統率していたのではなく利害関係の薄い布でかろうじてつながっていたにすぎない。
しかし発掘はそこにいくさを認めず、あったのは稲作に起因する協調だけ。

そもそも瀬戸内の奥に都が移った(派生した)こと自体、大陸の圧迫からの逃避であろう。
本来なら列島の最東端である関東平野でもよかった。
しかし関東平野は当時荒れ野と湿地しかない最果てで、貧弱な船では交易もままならなかった。ところがすんでいる人の数は関東、東海が一番多いのだ。
ということは彼らは蝦夷である。蝦夷と九州から来た海人がここで融合していた。
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「倭国大乱」は本当にあったのに、それは九州に間違いないのに、なのに九州の氏族が大挙して押し寄せた痕跡が近畿にない。その謎を解く鍵こそが「共立」、そして新たな巫女女王の共立だろう。
もうそれしか考えられる資料は存在しないのだ。こうして大和は祭祀の先進地となった。間に吉備、瀬戸内というインターバルをおいて、新たな変化を遂げながら。

参考文献;松木武彦『日本の歴史26 列島創世記』小学館 2007・11月