俗名橘永(ながやす)。法名は初め融因、のち能因に改称した。父は肥後守橘元(もとやす)かという。子に元任と女子一人がいる。
大学に学び、文章生となるが、長和二年(1013)、二十六歳の時出家し、摂津国に住む。諸国を旅し、奥州・伊予・美作などに足跡を残した。ことに陸奥旅行での作「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞふく白河の関」は名高い。家集には馬の記事が多く見えることなどから、馬の交易のため各地を旅していたとみる説がある(目崎徳衛)。歌は藤原長能に学び、歌道師承の初例とされる。長元八年(1035)の関白左大臣頼通歌合、永承四年(1049)の内裏歌合などに参加。和歌六人党の指導的立場にあり、また源道済・藤原公任・大江嘉言・相模ら多くの歌人と交流をもった。自撰の家集『能因集』がある。著にはほかに私撰集『玄々集』、歌学書『能因歌枕』がある。後拾遺集初出。勅撰入集66首。中古三十六歌仙。


●嵐ふくみむろの山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり 後拾遺366 百人一首
【語釈】◇みむろの山 みもろの山とも。もとは神の降臨する山を意味する普通名詞。ここでは奈良県生駒郡三郷町の龍田大社背後の山。◇龍田の川 生駒郡三郷町あたりを流れる大和川をかつてこう呼んだらしい。現在は生駒山に発し斑鳩町で大和川に注ぐ川を龍田川と呼んでいる。紅葉の名所。なお「たつ(裁つ)」は錦の縁語。◇錦 金銀ほか様々な色の糸を使って織り成した華麗な絹織物。紅葉を錦に喩えるのは、古今集以来の和歌の常套表現(下記参考歌参照)。

●桜さく春は夜だになかりせば夢にもものは思はざらまし(後拾遺98)
【補記】昼間に見た桜が、夜になっても心を占め、夢の中にまで侵入して、千々に思いを乱す。業平の「世の中にたえて桜のなかりせば」を敷衍しているが、夜の闇の中に咲く花の幻影がひときわの余情を添える。

●心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを(後拾遺43)
【語釈】◇津の国 摂津国。今の大阪中心部と兵庫県の一部を併せた国。能因は同国の古曾部(現高槻市)に長く住み、難波は馴染みの土地であった。

●世の中はかくてもへけり象潟の海人の苫屋をわが宿にして(後拾遺519)
【語釈】◇象潟(きさかた) 出羽国由利郡象潟。かつて潟湖があり、名高い景勝の地。

●都をば霞とともにたちしかど秋風ぞふく白河の関(後拾遺518)
【語釈】◇たち 旅に発つ意だが、「霞が立つ」を掛ける。

●よそにのみ思ひおこせし筑波嶺(つくばね)のみねの白雲けふ見つるかな(新勅撰1303)
【補記】筑波山は常陸国の歌枕であり関東の名山。
以上参考サイト  http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nouin.html#SP

●●都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関  後拾遺
 「歌枕の国みちのくの成立には、漂白の歌人や旅人らも大きな役割を果たしました。能因(988~没年未詳)がみちのくに残した和歌を辿ってみたいと思います。小倉百人一首の「あらし吹くみ室の山の紅葉ばは龍田の川の錦なりけり(後拾遺和歌集)」で知られる能因は、二度みちのくへやって来たといわれています。能因は、歌語や歌名所を解説した「能因歌枕」を著しており、その中で、陸奥国を山城(京都府南部)、大和(奈良県)に次ぐ第三の歌枕の国と位置づけています。能因は、藤原実方より半世紀後の当時屈指の漂白の歌人として知られています。
 古代の旅人は奥羽に入るには、三つの何れかの関を超さねばなりませんでした。白河関(福島県白河市)、勿来関(福島県いわき市)、念珠ケ関・鼠ケ関(山形県温海町)ですが、実方が没して30年後(1025頃)、能因は白河関を越えました。」
「橘成季撰の鎌倉時代の古今著聞集は次のようなエピソードを伝えています。これによると能因が都に籠居して人に会わずひそかに色を黒くしあたかも陸奥国の旅から帰ったかの如く偽って披露した和歌と伝えています。この伝説は裏を返せば、いかに白河関が都の人たちの憧憬する所であったかということです。また、袋草子によると竹田大夫国行という人が陸奥に下り、白河関を越えるおり、服装を改めたので、人びとはその理由を尋ねたところ「能因法師が、秋風ぞふく白河の関と詠まれたところをどうして平服で過ぎることができようか」と答えたと伝えています。このように歌枕の秀歌に対しては、ほとんど信仰にも近い憧憬があったのかもしれません。」
 「白河は都とみちのくの距離を埋める言葉であり歌枕はこうした魔性をも含んでいました。趣深い数多くの秀句も詠まれています。白河関を越えた能因は安積山、安達太良、会津嶺(磐梯山)を遠くにみながら阿武隈川を越えました。宮城に入ってまもなく武隈の松(岩沼市)にさしかかります。

 ・武隅の松はこのたびあともなし千歳をへてやわれは来つらん 
                       後拾遺和歌集
 武隈の松のある岩沼市は、古くから竹駒神社の所在地として知られ、京都府の伏見稲荷、愛知県の豊川稲荷と並び称された竹駒稲荷のある場所です。縁起によれば824年(承和9)に陸奥守小野篁が、東北開拓の神としてこの地に社殿を建立、武隈明神と称しました。能因法師が陸奥に行脚してこの地にいたり、
”竹馬に乗った童子(明神の化身)”に会い歌道の奥義を悟ったといわれ、
竹駒神社と称されるようになったといわれています。」 
「能因が三年間隠棲したと伝えられる能因島を、芭蕉は到着後すぐに訪れています。象潟は松島と並んでその景勝を謳われ、奥の細道に次のように記されています。「江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり」。能因や芭蕉の訪れた名勝象潟も、1804年(文化1)一夜にして隆起し、今は水田の中に島々が点在して往時の面影をとどめているに過ぎません。」
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①父親が肥後の守で自らは摂津(高槻市古曽部(こそべ)町を好み長くすむ。墓(能因塚)も古曽部にある。
②放浪(托鉢修行?)の長旅をして、東北、美作、九州などに歌を残している。
③宇土の不知火に歌碑がある。
④白川の関の歌を披露したときのエピソードに「陸奥の入り口に置かれた白河の関は、「歌詠まば逢坂の関、白河の関、衣の関、不破の関などを詠むべし」(能因歌枕)といはれ、歌枕としても有名であった。
 ○都をば霞とともに立ちしかど、秋風を吹く、白河の関      能因法師
 右の歌を詠んだ能因法師は、旅に出たやうに見せかけて、しばらく庵に篭って人前に出ず、顔を黒く塗って日焼けしたやうな顔で現はれて、陸奥国に修業の折りに詠んだのだといって、歌を披露したといふ。歌は京の都で作ったものである。」
 ④の参考サイト http://nire.main.jp/rouman/fudoki/07hukusima.htm
⑤「不老水」のエピソードを持つ。この史跡は高槻市の能因塚のそば。
 ⑤の参考サイト http://www.y-morimoto.com/saiiseki/nointsuka.html
⑥女性との噂の多い好き者と伝わっている。
⑦白河の関の歌は実は都で詠んだという。白河の関を空想して詠んだ後で実際に行ったのであるという。
  ⑥⑦の参考サイト  http://www.y-morimoto.com/saiiseki/nointsuka.html
⑧海人を詠んだ。
⑨顔におはぐろを塗った。
⑩松尾芭蕉は能因の後を追いかけて奥の細道に向かった節がある。
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白河の関の話は、つまり逆に言えばすごい創作者であるし、また何しに行ったかと。その答えは彼がかなりの「かっこマン」だったのと、のちに松尾芭蕉が白河、能因島などにいっていること、あるいはここが東北への入り口、関門となった時代が坂上田村麻呂の蝦夷征伐前に作られた関所ということがポイント。
能因法師は天台宗?空海は真言宗だが彼を偲ぶ気持ちがあったかも知れない。
なぜ能因が熊本の不知火に行ったか?
景行天皇が名付けた不知火海。手前には空海伝説のある上益城郡城南町丹生の宮がある。
さて?
記憶しておきたいのは、当時徒歩でこれほどの距離を平気で歩き回った人々がいたこと。
修行と銘打って、彼らはなにを目的にそこまで歩けたか?

能因法師は過去の歌人である伊勢を敬愛し、慕い続けた。
歌にほれたのか、容貌にほれたのか、あるいは伊勢の出自が彼と縁があったのか?
容貌などは当時わかるはずもないだろうが、想像力が豊富な時代には女性のイメージはかなり強調される。しかし伊勢にそれほどの美貌であったとは言われていない。むしろ伊勢が巫女の家柄だったことに原因があるのかも知れない。
橘氏といえば後に福岡県柳川藩など広く北部九州に力を持っている。

以下、いずれまた調べたい。
今回は宇土に彼の歌碑があることをつかめた。

不知火は火の葦北国造の本拠地である。
小説の材料にはなるか。スパイもの。
僧侶が放浪するとき、それは修行以外になにか意味がある。
和歌や俳句を残すことは当時、そこへ行ってきた証拠となっただろう。
行かなければ書けない情景が、本当に行ったことを証明したのだろう。
歌を詠まなかった空海はかわりにたくさんの「杖と水がわく、温泉がわく、水銀がとれた」などのエピソードを残している。証拠を残さなかった空海。俳句を残した芭蕉。歌と俳句。うまい方法を考えついたものである。空海の時代にはそいう洒落た隠滅工作の芸事がなかったか。