「相良村初神の白鳥神社 (熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
 人吉願成寺町では旧暦2月の五日、七日、九日に市が立ち、平家の落人が作りはじめたという伝説をもつ、雉子馬や市箱が売られる。寺名が町名になった願成寺は、相良氏入国のとき遠州相良から僧を伴ってきてここに建立し、菩提寺とされた。本尊阿弥陀如来は藤原期の作で重要文化財に指定されている。なお願成寺の裏山には、相長家歴代の墓がきれいに並んでいる。
 五分ほどで川辺川に出る。ここにかかる柳瀬橋を渡って台地に登ると、前に訪ねた血敷原に出るが、渡らないで左折し、しばらく川に沿って行くとパスのすぐ右手にこんもりした森が見える。雨宮神社である。伝説によれば、文明四年(1472)領内異状の日照りのため、藩主相長為統みずから参拝し、つぎの和歌を作った。”名も高き梢も松も枯れつべしなほうらめしき雨の宮かな”ところが帰途大雨が降ったので、願成寺にしばらく雨宿りされたという。戦前まで、日照りの時は、雨乞いの祈願がさかんに行なわれた。
 雨宮からさらに10キロさかのぽると旧四浦村(現、相良村)の中心地田代に着く。ここで川辺川を渡るとすぐ初神の部落があり、ここの白鳥神社にはつぎのような伝説がある。昔、社殿がひどく荒廃した時があった。ところが突然、村の女が狂いだし「われは白鳥の使いなり。当地を初神というは、四浦に初めて神の宮居を決めたためである。しかるにこれを捨て祭らざるは、はなはだ無道なり。今より長くその礼を失わば雷火を発して一時にもとの野原となす」というので、村人は驚き、さっそく社殿を再建して祭ると、狂女は正気に戻ったと伝えられる。
 このあたりから川幅が急にせばまり、流れも速さを増してくる。そして初神から4キロさかのぽった藤田部落にさしかかったとき、V字の峡谷はもっとも険しさを示す。このあたりから西北を望むと、ひときわ目だつ仰鳥帽子山(1302メートル)がそそり立っている。その東の稜線に仏石(1205メートル)がある。昔、球磨川の舟運が開かれる前、四浦(現、相良)-山江-八代を結ぶルートはこの山道だけであった。ある時、八代の商人が岩上に祭ってあった仏像を家に持ち帰ったところ、毎晩枕辺に仏が現われ、もとの所に返してくれとのお告げがあり、気味が悪くなって返したという由来がある。さて、相良村最後の集落藤田を過ぎると、もうそこは子守唄で天下に名を知られる五木村である。」
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-sekiryoo.html#anchor1539168

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雨宮姫は小国町の雨宮神社に祭られた阿蘇神社祭神。
小国町の氏族と阿蘇氏の政略結婚で姫は阿蘇氏にとつぐ。
その姫を祭る信仰が遠く南下した。
相良村にはやはりこの神社があり、小国から阿蘇へ行った話は、阿蘇氏の南下にともなって一緒に南下していったと見える。阿蘇氏は草部一族の吉見系氏族である肥の君(火の君)とも血縁を結び、次第に勢力を熊本一円に広げてゆく。
ただ、阿蘇神社の阿蘇氏と国造神社の阿蘇の君が同族だったかどうかはよくわからない。
おそらく想像するに「君」は在地豪族の呼称であるから阿蘇の君や火の君は5世紀以前からの古い氏族で、地元出身かどうかはわからないが、朝廷成立ころにあとから大和やってきたのが阿蘇氏ではなかろうか?
熊本県北東部、大分県の日田市に隣接する小国町は銅と水銀と林業があった可能性が高い。おそらく古くは日下部の関連がありそうだ。阿蘇氏は鉱物、山師を管理していったと見え、それがヤマトタケルや景行天皇や神宮皇后のクマソ征伐譚に反映した可能性もあるだろう。
だとしたら畿内から来た12の神を奉じる阿蘇氏が神武直系を言うのは、多氏と非常に似ていることになるし、「風の大祝」であった彼らが全国で名前を変えて(地名を氏族名として)知事クラスになっていった可能性は考えられるか?
それが多氏かどうかはまだわからないが。
いずれにせよ相良村のとなりは球磨川沿いの熊襲本拠地、免田町である。