「赤は――火のあかが赤(せき)であり、木のあかは朱(しゅ)であり、土のあかは丹(たん)であるが――心臓の色でもあり、血の色でもある。すなわち赤は、「いのち」の色である。」(宮城谷昌光『王家の風日』文藝春秋 2001)

朱=硫化水銀
丹=酸化鉄・酸化鉛
『京の色事典300』

「原始日本人が使ったアカ色には二種があった。一は水銀系のアカ、つまり硫化水銀(HgS)。一は鉄系のアカ、すなわち酸化第二鉄(Fe2O3)である。水銀系のアカがすでに説明したように純粋のアカ色を呈するのに、鉄系のアカは俗にベンガラといわれ、やや黒ずんで紫色に近い。この鉄系のアカは古く「そほ」といわれた。古代の日本人は漢字を学んで「赭」という字をあてた。
これにたいして水銀系のものは「まほそ」、つまり正真正銘のホソであるとし、「真赭」と表現されている。

のちに、おそらく天平時代と推測されるが、鉛系のアカができた。化学的にいうと四酸化鉛(Pb3O4)である。いっぱんに鉛丹といわれた。鉛丹はまた黄丹と書かれているように、赤と黄の中間色で、俗にいうミカン色である。黄色味の強いアカであるし、このものそれ自体が自然の産物ではないから、これは問題にならない。
しかし後代の赤ぬりはたいてい鉛丹を使っている。広島近くの有名な厳島神社。安芸の宮島でも修理のばあいに朱の代用晶として鉛丹を使ったようだ。海につき出した廻廊などで、朱塗りの部分と鉛丹で修理した部分とのツギメを見つけることは、さして困難ではない。それよりも、私が声を大きくして叫んでおきたいのは、こうして鉛丹が朱の代用品としてさかんに使用されて普及したために、朱にたいする日本人の感覚が変ってしまったことにほかならない。朱といえば、黄色味の強い赤色、つまり鉛丹色とする観念は、そこから出ている。
鉛系のアカ色(四酸化鉛)、つまり鉛丹を一に黄丹と称した点からしても、朱は元来が純粋なアカ色、そほにたいするまそほなのである。それを丹といった。われわれの祖先は、すでに縄文時代から土器や土偶に朱を塗った。古墳の時代になっても、その石室や石棺に朱を塗ったり、つめものに使っている。九州に多い彩色古墳でも、その石壁の文様に用いた。石壁のあのまぶしいような赤色は、朱砂を粉末にして塗りつけたものだ。」
http://kodo-tamaki.com/2005/07/post-63.html


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○「丹」が水銀と限ってはならない。
丹、丹土と書かれてあっても水銀とは限らない。ベンガラや鉛の可能性もある。
丹田という言葉には胎内の胆の意味があり、丹を「たん」と詠むとき、そこには「胆のすわり」などのキモという意味が含まれることがある。
樹木の朱色もある。
水銀と硫黄が混ざって丹となる。硫化水銀。
自然界で水銀を分解できる植物は存在しないのは、水銀が元素だから。これ以上分化できえない。