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修験道の聖地に入るための架け橋である。
この橋を渡るとその先は菊理姫(白山比売)のいる黄泉の国。
おやまを巡って帰ってくれば黄泉がえりと相成る。
ゆえに登山という行為そのものが「巡礼」なのだ。
それは母親の胎内をゆくような、いわゆる「胎内巡り」なのである。
写真のような高いところにあるとは限らない。
神社の参道の真ん中に造られた一見無用な存在の橋も無明の橋であるし、そもそも橋そのものがすべて無明橋だと思って暮らせと言っているわけである。
人間(じんかん)いたるところ青山あり。という漢詩の一説も、まさしく青山とは墓場なのだから、同じ意味なのだろう。
気を抜くと足下をとられ下界におっこちる危険性があるのは人生と同じ。
無事にわたれれば往生極楽が待っている。
ということは山で遭難し死を迎えられるものはむしろ有り難いと思ってよいのかも知れない。

春が来る。
中高年たちが、まるで引きつけられるように山に入る。
あれは、この世の地獄からの一時的逃避行動なのだろうか?