白山信仰に関わる静岡県磐田の白山神社には以下のような被差別民の皇子説話が碑文となって残されている。

「抑此地称王院人王第五十代桓武帝御子海上皇子御陵也うんぬん・・・」(京見塚王院墓地碑文)

(海上皇子という表記は開成皇子かいじょうのみこ・が正しいのだが、磐田の漂泊民のあいだでは海上と表記された。後で詳しく解説する)

これをさらにちゃんとした形で書き残しているのが磐田の白山神社の『御館由緒』である。
こちらには桓武帝第四皇子「戒成皇子」と書かれていて、「皇子が従者を伴って磐田の地に流離し、地元民に食料を乞うまでになったのは、御所で愛玩していた白雀が籠の戸を開けた拍子に飛び立って南殿の白砂に止まったのを追って、貴い身の上なのに裸足で大地を踏んだ結果、鬼神の怒りに触れて癪者となったからなのであった」(前田速夫『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』河出書房新社 2006)

開成皇子という人はしかし光仁天皇の皇子であり、大阪箕面にあった勝尾寺(かちお・じ)の開基とされている。勝尾寺は『梁塵秘抄』にも詠われた、当時著名な修験の聖地であった。
西国観音巡礼第二十三番札所で、清和天皇の玉体の安穏に霊験があったといわれる。

実は同じように流離して民衆に食物を請うたと云われている人物が千葉県市原市の飯給(いたぶ)白山神社に祭られており、それは大友皇子(壬申の乱で天武に敗れた弘文天皇)であるという。

これ以外にも滋賀県の永源寺木地師たちが親王の子孫を自認したり、渡り香具師が出自を業平に求めたりすることが多く、漂泊の職能民たちの多くが同様の親王末裔伝承を持っている。

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海人族がかつて海外交易のナビゲーターであったにも関わらず、やがてその多くが流離、離散して漂泊するに至るということは柳田國男の研究でもつとに知られているが、海人族が文字を「海上」とわざとか知らず間違えているのは、実にほほえましいことである。このhかにも平民、部民、漂泊民たちが、わざわざ、階級の高い者でもあまり使わぬような難しい漢字を選ぶ傾向が多々見受けられ、これも、なにやら昨今のあるグループの嗜好と類似していて、かなりほほえましい。

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白い雀とかいうのも、白山信仰ならではで、修験者がかなりいい加減にではあるが、記紀に目を通していたことが忍ばれる。「白い○○」「白」「しら」「新羅」・・・果てはついに本性が顕現して「磯良」までがオシラ信仰に混ざり合う。
磯良は九州海人族の祖人である「安曇のイソラ」であるがのちに「シラ」と云われた。