日本の民俗学では古くから「あわいさ」・・・「境目」について稲作と狩猟の文化交流の観点から言及されてきた。
民話
神話の中に潜む「さかい」・・・すなわち「坂」である。

「さか」と「さかい」は同源の単語である。

卑近な例では、当方の近くに「坂ノ市」がある。
県下最大の王塚がある。
地名も王塚である。
隣接して「おおざい」があり、旧郷名は「さい」である。「こさい」もあり、ここら一帯に入った古い氏族に「酒井」がある。明治時代まで酒井とも言った。海岸の古い海水浴場で、「こうざき」=神崎がり、そこから先は太平洋で佐賀関となり郡名を「あまべぐん」と言う。その海部郡には海女がいる。今でも女たちがシュノーケルで潜っている。

銅がとれる。
緑色の泥岩が古墳石室に使われている。この岩は内陸でも使われている。

「さい」とはなにか?

潮騒と書いてなにゆえ「しおざい」なのか長く不可思議であった。
山が海岸すれすれまで迫り、そこには里山がない。いきなり山、いきなり海の狭小な漁師町。
しかし浜がある場所は「さい」と呼ぶ。

「さい」と「さか」、「あわい」と「はさま」、「貝」と「界」・・・・みな同源ではあるまいか?
そこに山と海の見えない境界がかつてがんぜんとしてあった。

山の民は蓑を作り、シュロ箒を作り、しめ縄を作り、木の腕を作り里に下りてきた。そして海産物とそれらを交換した。その痕跡が行商人として筆者の小さい頃までいた。私の住む大きな町までやってきたのである。彼らはのちにミカンを作り始めた。それは今、その地域の名産となっており、今でもブランドである。石灰質のあれた土地と潮風がミカンを育て、やがて技術は平地へ向かう。そこで海部の中心地が自然発生し、そこには今でも醤油、酒、工芸が息づいている。

匠・・・・。

考えてみれば農業に不適な狭小地で、中世、山の民も海人も「水のみ」「おほみたから」と呼ばれた。それは納税罷免者のことである。今、彼らをいまだに悪く言う人もいるが、彼らは実は天孫の子孫を自認し、国家から免税を許された誇り高き氏族である。事実、いくさでも、きんきんの戦争でも、彼ら技術者の部隊は常に騎馬、伝達の名誉を担った。

なぜか?
それは彼らが自由人だったからである。
自由人とは、畑や水田という、朝廷唯一の安定財政を生み出す納税者のように、地域に縛られず、自由に境を往来できた・・・すなわち情報収集集団だったからだ。最新技術を得るために、彼らは海外へも出て行けたし、山と海の情報を交換できた。ゆえに記紀は彼らを表向きは毛嫌いし、見下げているように見せはしたものの、実は一目も二目も置いておそれたのだ。情報を握っている、それはもっともおそれるべき相手なのだ。ゆえに口を封じる。ゆえに持ち上げる。ゆえに収入を保障する。ゆえに優遇する。ゆえにまったく逆説的にであるが、納税者から冷視される宿命にあった。

里山。
日本のフォークロアはそこで生まれ、そこで育ち、今の技術国日本のいしずえとなっていった。時がたてば、彼らは真実のこの国の功労者と気づく者が増えるだろう。
文化、技術、国益、富国、増強の影で民話はくまなくゆきわたってゆく。線路のように長く。煉瓦のように赤く。石垣のように強く。われわれはそれを知らずのうちに自分の足とし、家とし、壁とし、そして便利とし、日本人の伝統文化とし、なんと我々はおしなべて優秀な熟練工だろうかと勘違いしているだけかも知れない。汗のにおい、血のしたたりなき、安穏な我が家で。

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