水野祐『日本古代王朝史論序説』

「昭和二十七年(1952)に、当時まだ早稲田大学の非常勤講師をしておられた水野祐先生が活字ではなくてガリ版刷りの本で、古墳時代に相当する時期、日本の天皇家は、いかなる流れなのかということをお書きになった。(1992、早稲田大学出版部から新版再販)(中略)、『古事記』や『日本書紀』、『魏志』倭人伝などを駆使してその本をお書きになっています。
 古墳時代に相当する時期、天皇家(中略)には一つの流れはなく、三つの流れがあるとしています。一つは古王朝で、大和の三輪山の麓あたりに根拠地をもっていた古い王朝です。考古学的には前期古墳の時代のころで、黒塚古墳などの前方後円墳のある大和古墳群がその勢力に関係するでしょう(3~4世紀の崇神王朝ともいう。かわかつ注)。それから西暦五世紀ごろ、羽曳野市や藤井寺市にある誉田山古墳とか堺市にあります大山古墳のような、応神天皇とか仁徳天皇に関わるであろうといわれている巨大前方後円墳の時代を中王朝と名づけられている。そして『日本書紀』にも書かれていますように、中王朝の最後、武烈天皇で王統が途切れている。そこで、水野先生は武烈天皇で一度天皇家の流れが切れて、継体大王から新しい王統がはじまると想定するわけです。それを新王朝としています。この見解にたつと継体大王は新王朝の始祖ということになります。」
森浩一講演『継体大王と樟葉宮』(『枚方歴史フォーラム 継体大王と渡来人』森浩一・上田正昭編 大巧社 1998)

「ところが、王統が絶えるということには非常に疑問がある。武烈天皇はともかく、当時の大王は一般には皇后以外に妃が五人も六人もいる。またおそらく妃以外にも女性がいたと思います。(中略)しかもひとりの女性がたくさんの子供を産んでいます。そうすると一人の大王に(天皇)に対して数十人の皇子や皇女がいる。(中略)そうだとすれば、仮に武烈天皇その人に跡継ぎがなかったとしても、今日流にいう宮家のような人たちを含めるとすれば、大和や河内だけで数百人の、きわめて天皇に近い血筋の人がいたはずです。」

このあと出現する息長氏の嫡子・オオドノミコト・継体大王が、なぜ母・振姫の出身地である福井の九頭竜川流域を根城にし、そこからわざわざ呼ばれなければならないだろうか?

井上光貞はかつて公でない場所で森浩一にこうつぶやいた。「継体大王は渡来人かも知れないね」(以上同上参考著書)

大竹弘之はこう書いている「(継体は)大和に入るのに二十年もの歳月を要し、河内・山城の淀川水系に宮が置かれたのは、大和の旧勢力との対立によるものとの見方もあるが、それまでの中枢であった大和にあえて入らなかったのではないか。すなわち淀川の水上交通を利用した先の勢力基盤の連携強化と、緊迫した朝鮮半島情勢を見据えた軍備増強を優先させた結果であったと思われる。」

そして森浩一はこう結論づける。
「継体大王の都は、枚方、つまり北河内の楠葉と、南山背(城)の筒城、そして淀川水系の北の弟国の三つをつないだ三角地帯に点々と移動していて、その地域を最有力視していた」

そして継体即位のさい、大伴金村が剣と鏡を捧げたことをあげて、即位の儀式へのささげものとしては異例の二種の神器であり、そのような事例は即位にはほかになく、三種の神器そのものがそもそも平伏のささげものだろう。つまり大和の旧勢力は継体勢力に平伏されたのではないかとしている。

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2008年現在の定説はほぼそのとおりとなっている。

つまり、淀川のデルタ地帯こそが旧大和勢力に先んずる流通の基地として絶好であり、そのルートを福井から琵琶湖を抜けて押さえ込むために息長、三尾といった近江の渡来系氏族と福井、気比、若狭、出雲などの渡来系氏族が同族となって古くから同盟があった。そのバックにあったのは百済王家であり、半島の鉄の素材であると。
その鉄の武力で、継体たちは大和の物部、大伴たち旧勢力を押さえ込んだのだ。
その力があまりに強大だったからこそ、大和には古墳の中以外には鉄の武器が発掘されないのだ。
その後の鉄器をおしげもなく満載した大和の古い前方後円墳群は、継体の強さの証明であり、継体こそが先進地九州を圧倒して日本を作ることができたはずだと。

関連→かわかつワールド

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