鮭神社が全国にたったひとつ、なぜか九州の遠賀川沿い、英彦山の麓にあることについて、以前は「サケ」とは魚ではなく開闢地名の「裂ける」だろうと考えていたが、実際に北日本から海産物が持ち込まれた痕跡が福岡県の遠賀川から出ることがわかってきた。

こうなると鮭神社は、やはりサケがこの地に運ばれたゆえの銘々であった可能性が強まってきた。

豊前地域の遠賀川は、西側対岸は筑前になるから、ここに王塚古墳という最後の装飾古墳ができることをあわせて考えると、肥の君・猪手一族の前身がここに入ってきたと思え、それを受け入れた古い勢力である縄文系の人々は縄文からの古い文化をすぐには捨てなかったものの、新しい文化である稲作も、また北からそれを教わりにやってきた北日本続縄文期のたちの手みやげも同時に受け入れてはいたようである。

また、鮭神社の上に存在する小石原は、日田市の小鹿田焼きと同系統の民陶で、新しい時代に半島からやってきた渡来人たちの技術を取り込んだものであるから、これらをひっくるめて王塚の被葬者のもとには豊前とはまったく異なる文化があったようである。


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