■懸棺葬(けんかんそう)あるいは懸崖葬(けんがいそう)とも。
■長江上流域四川大盆地に存在した巴蜀(はしょく)文化(BC500~BC300?)の一地域的特性墓。長江文明の一部として把握。 
■中国南部内陸部には崖にうがった、あるいは自然の洞穴を利した「崖墓(がいぼ)」風習が各地にあり、懸棺葬も広くは崖墓の範疇に入ると思われる。
■考古学的には「懸棺葬」を用いる人が多いようである。
■2004/01/31 NHK総合 地球に乾杯 「中国 天空の棺」〜断崖に消えた民族の謎〜
が紹介した中国四川省の埋葬形態である。
NHKアーカイブス情報http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090402010030048/?n=4&q=%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%81%AB%E4%B9%BE%E6%9D%AF&st=on&fy=2004&fm=1&fd=31&o=1&np=20&or=t
(ただし番組内容の紹介はすでになくなっています。視聴は今後の再放送あるいは東京のNHKアーカイブで)
■この遺跡は四川盆地の南の端の山間谷あい、四川省宜賓市(簡体字:宜宾市・ぎひんし)の近く洛表(らくひょう)郷の麻塘壩(簡略体は麻塘坡・まとうは)にある。龍洞溝や呉家溝などの長江支流の谷間の景勝の崖地沿いにあまたの墳墓が存在する。検索でヒットしない、地図にもないような山間僻地。

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これを見た人の感想など http://wandering-wind.jp/archives/2004/0203135007.php

■詳しい情報サイト
 「きりたった崖の中腹にいきなり棺が刺さって野ざらしになっている懸崖葬。
 懸崖葬(けんがいそう)を行っていたボー人(Bo人)。
 ”棘の下に人と書いて”一字で ボウ。
 宗教儀式・階級の象徴に「銅鼓」を用いる。
 象徴として、西方の文様に似た太陽の紋章を重用。
 元海洋民族で、長江流域の9省にわたり広く住んでいたらしい。

 が、1600年代かな、滅ぼされ、歴史も途絶える。
 いまでは地元中国でも「崖に飾られる謎の棺」扱いらしい。
 末裔は中国南部の数カ所に暮らしているとのこと。

河畔の崖にある棺の中には、 三峡ダムの完成に伴って、水没し失われるものもある模様。」
http://am.tea-nifty.com/ep/2004/02/post_22.html
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■懸棺葬の時代的背景
■巴蜀(はしょく)文化 B500?~B316(長江上流域の四川大盆地での文明)
「川西文化と巴族文化が融合したもの。巴族はもとは東部峡谷文化圏の巫山山脈地方に拠り、甲骨文では“巴方”と記されて伝統的に殷王朝と対立し、しばしば武丁・婦好によって伐たれた事が確認され、殷周革命では周に与して勇猛を謳われた。大渓文化を母体としながらも投剣や懸崖船棺葬などの風習は独自色が強く、殊に船棺葬は水上生活の名残とされる。製塩によって富強となったが、楚の拡大に圧されて川東地方に進出し、春秋中期頃には川西地方をも征服して巴蜀文化を誕生させ、B316年に秦の司馬錯に征服されるまで継続した。『華陽国志』などによれば、魚鳧(=三星堆文化)を滅ぼして成都に成立した杜宇王朝(=十二橋文化)は、春秋中期に洪水に苦しんで東方の鼈霊族(巴人)に助力を求め、治水の成功で声望を高めた鼈霊族に滅ぼされて開明王朝が始められたという。
 巴蜀文化の特徴とされる円鉞や把槍剣は巴文化の名残とされ、懸崖葬が土葬になった後も船形棺は用いられ、長江流域の船棺葬は清代まで継続したことも確認されている。巴蜀文化で用いられた巴蜀文字は中国唯一の非漢字系統の文字で、印章の他に楽器や武器などに施されているものもあるが、インダス文字同様に解読はおろか、絵文字・象形文字・表意文字・音節文字など文字系統の判別もされていない。巴蜀文化の言語系統の特異性は、『説文解字』などでも「言語異声、文字異形」「蜀左言」と夙に指摘され、言語矯正は秦の蜀政策の最優先事項とされた。」http://home.t02.itscom.net/izn/ea/chi0-0.html

■■■基本的に懸棺葬には
1「船形棺(ふながたひつぎ)」が用いられ、
2副葬品を持ち、
3岩画(人物の乗馬や雑技を題材にした壁画)を持つのが特徴である。
■船形棺は日本の古墳時代にも存在し、死者の霊魂を高いところに置いて船に乗って舞い上がるという信仰様式の存在が考えられる。
■副葬品を持つ埋葬形態は日本では古墳時代以前から北部九州で始まっている。畿内で副葬が始まるのは古墳時代になってからである。
■岩に壁画を描く風習も、北部九州の4世紀~6からすでにあり、畿内では高松塚の7世紀にまでさがる。その時間差は200年以上。

■懸棺風習がすたれても、なお船形棺を用いること、副葬品、壁画という風習が各所に広がっていくことが重要。
■棺を懸けるのは一時的で、ほかの風習はなんらかの原因でここを出て行った人々によって拡散したこと。
■それらの埋葬風習が清代まで続くということが、巴蜀人の風習の伝播が細々とではあるが長く広く中国各地に広まったことを証明し、民族の流出の背景にあった戦乱や抵抗、その結果の民族四散の歴史を知ることにつながるだろう。この人々が河川を下り河口
域にまでたどり着いたとしたならば、そこにいた倭族=海の民と出会うことがあれば、その民族がやがて海外へ逃避したことはありえる。
■世界の文明は河川にそって生まれ、やがて上流域へと広がるのが常である。巴蜀文化も長江下流域において大きな発達を見せた。上流域の文明と河口域の文明には共通点がある。

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以下はC・ダニエルス・渡部武編『四川の考古学と民俗』歴史・民俗叢書Ⅲ 東京外語大・アジア・アフリカ言語文化研究所 慶友社 1999から記事と画像を編集した情報。その壁画画像に留意して次回へ続く

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