「奈良時代に原形が作られ平安時代の中期に現在の形に仕上げられた『上宮聖徳法王帝説』や、747年(天平19)に法隆寺が作成した『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』によれば、聖徳太子は在世中に7つの寺を建立したとされている。実際の聖徳太子が造営したのは斑鳩寺(=法隆寺)だけであり、後は聖徳太子にゆかりがあった人々によって建てられたものである。7つの寺とは、1.法隆寺(法隆学問寺)、2.四天王寺、3.中宮寺(中宮尼寺)、4.橘寺、5.蜂岡寺(広隆寺)、6.池後寺(池後尼寺、法起寺)および7.葛木寺(葛城尼寺)である。
 これら7つの寺の中で、葛木尼寺だけが所在が確定していない。今まで橿原市の和田廃寺、香芝市の尼寺廃寺、および御所市の朝妻廃寺の三カ所が候補地とされてきた。最近になって、和田廃寺を葛木尼寺に当てる説が有力になっている。主な根拠として、次の2つが指摘されている。
■『続日本紀』の光仁天皇即位前紀には、「葛城寺乃前在也、豊浦寺乃西在也、於志止度、刀志止度、桜井爾」との童謡が記されていて、葛木寺が豊浦寺の西(蘇我氏の本拠地)にあったことを示している。次に、延久2年に作成された『興福寺大和の国雑役免坪付帳』には、和田廃寺の寺域が11世紀後半まで葛木寺の田であったことを示している。」

■『上宮聖徳法王帝説』は「葛木寺、葛木臣に賜う」と記している。『聖徳太子伝暦』には、同じ内容で蘇我葛木臣に賜ったと記す。しかし、実際は蘇我葛木臣が氏寺として建立したものであろう。葛木寺は尼寺だったようだ。聖徳太子に関連づけた創建説話を持つ寺院は、なぜか尼寺が多い。7寺のうち4つが尼寺である。」
以上 http://www.bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/temple/katuraginiji.htm

■『聖徳太子伝暦』
推古29年(621)に葛城寺を蘇我葛木臣に賜わる。

■蘇我蝦夷は豊浦大臣(とゆらのおおみ)とも通称されていたから、蘇我氏は豊浦にいたことがわかる。その近くに葛城(木)寺があった。
以上、蘇我氏が葛城氏を名乗っていたという証拠である。

なお、葛城烏那羅(かつらぎのおなら、なんとまあ)という人物は葛城の嫡流ではなかったそうだ。加藤謙吉著書に詳しいことが見える。馬子に近い一家に葛城を名乗った氏族もあったということらしい。

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