門脇禎二さんが唱えた蘇我氏渡来人・木満智説には難しい問題がふたつばかりある。

まず蘇我満智と木満智、木満致には決定的に登場する年代に違いがある。
日本書紀応神天皇紀では、木満致が渡来してきたのでこれを諌めて帰国させたとある。
木満致は応神25年の記事に登場し、百済の王が幼少なのをいいことに木満致が国政をほしいままにし慢心して横暴だったため、応神がこれを日本に召して叱ったという内容だ。

木満智の方は『三国史記』に登場している。
蓋鹵王21年(475)に高句麗が百済の首都・漢城を包囲。そのとき王は息子の文周に避難を命じた。で、文周は木満智・祖弥傑殊(そみ・けっしゅ)と南のほうに非難したとある。ここから南すなわち日本と門脇は考えた。そして木満智は檜前(ひのくま)の東漢氏の中に迎えられすぐに指導者となったのだと。

応神天皇の時代は4世紀末。蘇我満智の生きた時代は5世紀中盤なので、50年以上の開きがある。
木満致と木満智が同一人物だとしてもかまわないが、蘇我満智は時代が一世代以上下がる。

また文周王子と日本に行ったとしたら、相棒の祖弥傑殊の方はいったいどうなったのか記録がまったくない。まして文周王子が日本に来たのなら記事にならぬはずはない。

と言うのが武光誠の考えである。

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