■宮崎県の装飾古墳1
宮崎県は九州東南部の海岸部にあって旧国名は日向。
日向になるまでは、南部は薩摩国、北部は豊国の管理下に置かれた。
宮崎県の古墳に特徴的なのが地下式横穴墓。
宮崎県の装飾のある古代墳墓と言うとまず中心は地下式横穴墓、それに若干の横穴墓に限られているので、まず地下式横穴墓の概念からご紹介する必要がある。

■地下式横穴墓


概念
・地表から縦方向に竪孔を深く掘り、そこから横方向へ羨道を掘った特殊な横穴墓。
・地下式横穴墓には上部に盛り土をし墳丘を持たせたものもあるが、多くの場合、小高い盛り土が失われており、その普及率は不明。こちらが主流だったことも考えられるが不明。
・多くの場合妻入り型で追葬はなく、被葬者はひとりだったが、6世紀になると複数追葬を意識した平入り型へと発展した。
・初期の5世紀には規模も大きい5mに及ぶ玄室が作られた。
・玄室には屍床が作られている。
・石室の種類はさまざまで、切り妻型、寄せ棟型、ドーム型、アーチ型などがある。
※地下式横穴墓のほかに宮崎県には北部九州型横穴墓も混在する。

■分布
・そのほとんどが大淀川流域、一ツ瀬川流域に集中し、大淀川から内陸部に進むと今度は隣接する鹿児島県の川内川流域上流部に転移拡大している。
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・九州型横穴墓が宮崎市の海岸部のみにあるのに比べて、地下式横穴墓はずっと南下して鹿児島県志布志湾、肝属郡にまで飛び火しており、宮崎県というよりも九州南東部でのみ展開したことが特徴的。そのため、地下式横穴墓は隼人の墳墓だったという説も有力。ただし、隼人の墓だった場合、その主流地域だった鹿児島県西部地域にまったく見られないことは矛盾してくる。
・例外として熊本県人吉地方にわずかに見られる。
・川内川の霧島北部の小林市あたりを中心に居住していたのはむしろ熊襲のうちの襲族だったことも勘案。
・球磨川と曽於郡に二つの氏族があったことがよく言われる。
・これが熊襲だったとするのならば、曽於族の首長が大淀川へ移動したとされる鹿児島大学・北郷泰道氏の曾の君北上仮説もある。

■地下式横穴墓の装飾




■地下式横穴墓玄室埋葬状態(複数埋葬の例)と人種
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立切35号の埋葬状態

土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸氏の地下式横穴墓被葬者遺骨分析によれば、宮崎県の古代人人骨は「平野タイプ」と「山間部タイプ」に大別されるそうである。山間部タイプは山間部だけで見られ、平野部タイプも平野部だけであることから、この二者はどうやら派生元を異にすると見られる。山間部は原日本人的で縄文人タイプ。平野部は別な地域からの移入者と見られている。しかしまったく出身の違う両者が同じ墳墓形式を持ったというのも奇妙な話である。?

■出土遺物


装身具・・・金製垂飾付き耳飾(百済様式に似ている)、碧玉製管玉、ガラス製丸玉、水晶製勾玉、けつ状耳飾などなど
武具、馬具、銅鏡、環鈴、刀子、やっとこ、須恵器、土師器、剣など多数。鉄鏃の先端が幅広なのが特徴的。

参考資料「宮崎県の装飾古墳と地下式横穴」熊本県装飾古墳館「全国の装飾古墳Ⅰ」

次回その2、宮崎県の装飾横穴墓

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