『日本書紀』から蘇我稲目以前の蘇我氏系図を作ると以下のようになる。

武内宿禰-------蘇我石川宿禰----満智-----韓子-----高麗(馬背)-----稲目-------馬子

そして馬子からはこうなる。

馬子--------蝦夷-----入鹿(断絶)
|
|
|-----雄当-----倉山田石川麻呂(断絶)
|
|-日向
|-赤兄
|-連子-----安麻呂
|-果安

「馬子、蝦夷、入鹿とつらなる一家(蘇我本宗家)はもとは『日本書紀』が記すものと異なる系譜を伝えていた。しかし、大化改新によって、入鹿に代わって石川麻呂が蘇我氏の嫡流とされた。そのとき、かれらは稲目より前のもとの系譜を否定し、新たな系譜を作った。」(武光誠)

その石川麻呂たちが啓上した系譜が上の満智から高麗までの三者であろう。そもそも蘇我倉石川分家は本宗家を裏切り、入鹿らを死に追いやったのだから、それを消してしまいたいのは当然だ。なにしろ朝敵の姓名は使いたくもない。それで思い切って渡来系の始祖である武内宿禰を筆頭に置くこととなった。渡来人ならば本宗家とは無関係の外国人になる。

そもそも武内宿禰は葛城氏が勝手に作り出していた人物なのだろう。しかし宿禰伝説が広まるのはそれほど古い話ではない。記紀の神功皇后説話そのものがまず造作である。入鹿暗殺後の作り話、仮冒である。
なにより、石川麻呂たちの本拠である石川は葛城氏族のテリトリーであるし、石川宿禰などという二番目の始祖も地名から作られたと考えられる。

蘇我氏が葛城氏の眷属だと言われる根拠は馬子が葛城の土地(石川周辺)を返してほしいと天皇に奏上し、それから蘇我と名乗るのだろうと思われる。それ以前は葛城という姓の氏不明氏族である。
満智に当たる人物はちゃんといたのだろうが、多分その名前ではない。石川麻呂がそれを満智としたのは、最初から木氏との関係を言いたかったためではないか。

しかし裏切り者は再び暗殺される。
氏寺山田寺の仏頭が断ち切られたように、石川麻呂も殺されてしまうのである。
日本の歴史では、物部も葛城も蘇我も筑紫国造家も、決して絶滅はしない。兄弟、いとこは必ず残すのである。それは一家の方針でもある。中世武士もそれは同じ。家を残そうとするのである。
このことはしかし却ってその後の政情をややこしくしていくこととなるのは必定である。目をすべて断ち切らぬと、頼朝、義経が現れてまたいくさとなる。

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