装飾古墳の分布の謎を解くにはどうしても船が使える氏族がいる必要がある。
なぜなら、装飾古墳、線刻古墳は鳥取や出雲、香川どころか大阪、福島、茨城、東北にまで存在しているからだ。これだけの広範囲に装飾葬送が広まるには、実際に九州にまで葬儀を見に来たか、九州人が現地へ行ったかという歴史的背景が絶対に必要となる。
そこで考えられるのは、縄文時代の東北の遺跡から出てくる南国産貝のブレスレットや、環太平洋、環日本海、東シナ海にまで広がるけつ状耳飾(C型耳輪)などだ。これらがそんな昔から流通してきた事実がすでにある。沖縄の南方でしか取れない貝殻は、現在では鹿児島、やく、たね(屋久島・種子島)に一度集積し、そこから北上したと言われている。夜光貝の名前が元は「やくがい」といわれていたように鹿児島、屋久島、種子島はそれらの中継基地だったこともすでにここで分析した。

そもそも沖縄南部の先島諸島、八重山諸島と北部の本島から鹿児島は人種が違っていたことも記録から分析済み。

鹿児島といえば、隼人である。その隼人の墳墓様式に似た墳丘を持つ横穴墓が豊前にあって、しかもそこから隼人の剣である蛇行剣が出た。その竹並横穴墓群近くになんと「隼人塚古墳」さえある。ということは?渡来系秦部や勝姓の技術者・土木・鉱山関係者たちと隼人が同居していたとなる。

そこでもう一度『正倉院文書』の残管戸籍を見直してみよう。
「正倉院文書」大宝2年(702)残簡戸籍(最古)
■仲津郡丁里(行橋の一部、豊津、犀川に当たる)
秦部  239戸、丁 勝(かつ) 51戸、狭度勝(さわたり・かつ) 45戸、川辺勝 33戸、古溝勝 15戸、大屋勝 10、高屋勝 3戸、阿射彌勝 1戸、黒田勝 1戸、門勝 1戸、田部勝 1戸、物部 4戸、車持部 3戸 、鴨部 3戸、大神部2戸、日奉部 2戸、宗形部 2戸、難波部 2戸、矢作部 1戸、中臣部 1戸 膳臣1戸、津守 1戸、呂部 1戸、建部 1戸、 錦織部 1戸、高桑部 1戸、生部 1戸、春日部 1戸、刑部 1戸、無姓 49戸、不詳 2戸。
■上三毛郡塔里(とうのさと)(唐原のある旧大平村=今の上毛町東部山国川沿岸地域及び対岸の中津市上ノ原地域)
秦部66戸、塔勝 49戸、強勝 1戸、調勝 1戸、梢勝 1戸、楢勝 1戸、難波部 2戸、海部 1戸、物部 1戸、膳大伴部 1部。
■上三毛郡加自久也里(かしきえのさと?)(豊前市久路土・塔田地区〔小田富士雄〕)
秦部 26戸、河部勝 16戸、上屋勝 13戸、膳大伴部 4戸、飛鳥部 4戸、刑部 1戸、膳部 1戸、浴部 1戸、無性 7戸。」
(すべての戸主名から一歳の緑児まですべての家族の全記録付記。完全なる戸籍記録として最古)
もちろんこの戸籍は大宝2年、つまり8世紀初頭の奈良時代の記録だし、倭五王時代にまで遡ることは不可能だ。しかし、これほどの割合ではなかったかも知れないが、倭五王時代にはもう渡来人がいた可能性は、豊前の線刻画古墳や横穴墓の年代が5~6世紀だったことで証明できている。

さて、この戸籍からは同時代の同地域に、秦と勝以外の民が同居していたことが見て取れ、彼らがある種の共同体を構築していたことは一目瞭然である。
ということは、ここに書かれている海人系部民(鴨、宗形、海部など)は秦氏共同体の一部だったと考察できる。彼らがなんのためにここにいたのかである。
しかも戸籍の数値は人数なのではなく「戸数」なのだから一戸一戸には家族がいたわけだ。
彼らが船を手繰り、潮目を熟知していただろうことは否めない。つまり海人系部族も「はたべ」を名乗り、船で鳥取や香川のみならず太平洋までも貿易に行くための貴重な船人だったことが想像に固くない。

この共同体を詳細に見渡すと、西の靫負大伴と東の膳臣に関わる氏名・・・膳大伴、膳部、さらには大伴氏をわが君と呼んでいた葦北国造由来の刑部なども見える。
芦北国造の本名は刑部靫部(おさかべのゆぎべ)である。
●「火葦北国造刑部靫部 阿利斯登」日本書紀允恭天皇紀
「ひのあしきたの、おしさかべ(おさかべ)のゆげいべ ありしと」
まずその長い肩書きのうち、刑部というのが允恭大王に大いに関係する。
というのも、刑部とは允恭大王の后であった忍坂大中媛(おしさかの・おおなかつ・ひめ)のために制定された名代部なのである。
名代部とは大王や王族の経済的まかないを専門にとり行うための所領、すなわち大王の台所とも言える重要な職掌なのであった。
その重要な所領を管轄し、軍事的防衛を行っていたのが実は靫部である。
肥後南部、氷川や宇土半島からやや南下した葦北の国造(くにのみやっこ)が、どうして同時に中央の靫部なのか?
もともと中央の靫負を管理していたのは、軍事力で大連となっていた大伴大連氏だった。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/43244526.html

●ゆげいべ・ゆげいべと大伴氏
大伴宿祢。高皇産霊尊の五世孫、天押日命の後なり。
初、天孫彦火瓊々杵 尊、神駕之降まししときに、天押日命、大来目部、御前に立ちて、日向の 高千穂峯に降りましき。然後、大来目部を以て、天靫部と為しき。
靫負の号此より起れり。雄略天皇の御世に、入部靫負以て大連公に賜ひしに、 奏曰さく、門を衛りて開
き闔づる務は、職として已に重し。
若し一身なり せば堪へ難からむ。望むらくは、愚児、語と、相伴に左右を衛り奉らむと。 勅して奏すが依にせしめたまひき。
是れ大伴、佐伯の二氏が、左右の開き 闔づることを掌る縁なり。
『新選姓氏録』「左京神別中」条


●さえき
大和守従四位上大伴宿祢古慈斐・左大弁従四位上兼
播磨守佐伯宿祢今毛人、 開門す。
(『続日本紀』宝亀二年(七七一)十一月二十一日条)
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/43291856.html

このように豊前秦部と勝姓集団は中央大伴氏との深い絆があった。そして大伴氏の片腕には海人族・久米部や佐伯部が存在していたのだ。
こうしたことから豊前は九州産物を東の端で瀬戸内に近いという立地条件を利して集積した「西の大蔵」だったと推察できるのである。しかも豊前は穴門にも隣接し、大陸からの距離も九州では遠く、背振山山系と遠賀川と難所である急流の関門海峡と豊後水道によって難攻不落の三毛=庸調の大集積所=秦王国となっていたのだろう。秦氏が奈良時代、平安時代までも大蔵官僚氏族だったこともすでに分析済みである。

ところがである。

実はその大蔵官僚を取りまとめる政府の大臣と言えば・・・これがなんと蘇我氏だったのである(志田諄一・武光誠)。

倭五王が奈良に入ったころ、大蔵の役目は葛城円(かづらきの・まどか)等葛城氏が牛耳っていた。ところがこれが雄略(おおはつせの・わかたけ(る))によって殺害される。その後、突如として葛城に隣接した土地にいた蘇我稲目が登場。にわかに大蔵大臣についてしまうのだ。

当初蘇我稲目は漢氏を内蔵だけに置いたが、大蔵の必要性をほかの実力者から言われて大蔵ができた。そこに漢氏のライバル秦氏が独占、自然、大蔵の責任者も蘇我稲目に決まる。こうして中央の秦氏は蘇我氏とも深い関係を持つこととなった。しかもそれまでの最実力者だった大伴金村大連が国際政治に失敗し隠居。蘇我氏のライバルは物部氏と阿部氏くらいになっていた。

こうして蘇我氏と渡来氏族は地方の国税を一気に牛耳るようになる。

次回から豊前から離れて中央の蘇我氏の真実に迫る。完全版。

★装飾には「よみがえれ」の呪と「よみがえるな」の呪がある。それは相乗相克の呪と反生反克の呪を示す。例えば磐井の乱で国家に反駁した筑紫君磐井には反生反克の呪紋である直弧文が張り巡らされた。下向きの木の葉と上向きの木の葉にも、そのような底辺からの「民意」があったのかも知れないのである。

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