これまでKawakatuがこのブログで調査してきた九州の装飾古墳に関わる氏族は以下のとおりである。





これまで装飾古墳画像を現地で、あるいは資料から収集してきた中で、その地域的特性についてはHPに地域別アルバムを作って一覧できるようにしてある(若干分類に誤りがあるかも知れない)。
その中で地域別にこだわらず、「円文」に限って注目して集めてみると、数ある装飾文様の中で、その「共用ぶり」は特筆に価する多さとなる。
円文自体の細かい分類はさておいて、ざっと西は有明海沿岸八代から内陸の朝倉・日田・玖珠を経て豊前地域にまで広範囲に存在することになる。もちろんただ丸い円だけでなく、同心円もあれば赤いもの黒いものさまざまなのだろうが、おおまかに丸い円を持つ墳墓を見ればそうなっている。

これまでの検証では、装飾古墳を持つ氏族は、多氏、筑紫国造同盟国という見方で書かれたものが多かった。しかし円文の東西の展開には、実のところ磐井の乱で滅びるまでの筑紫国造家連盟というだけでは理解できない氏族共栄圏が見えてくる。それが靫大伴氏という中央氏族のもとにつながっていたと考えられる中央とのえにしを持つ人々と、壁画や線刻画を親分の墓に描いた張本人だと思える海人族だ。

装飾古墳の時代は5世紀から6世紀なのであり、それはもう九州が王家として君臨できていた時代から200年以上も経ってしまった倭五王のプレ中央集権国家の時代なのである・ここを邪馬台国問題などと混同してはならない。倭五王の河内王朝と邪馬台国の間には大陸の争乱の100年間が大きく横たわっている。それは激動の時代であり、大きく世界情勢が変化した時代だった。倭国が倭人だけではなくなっていった時代なのだ。当然、3世紀と5世紀では歴史の把握の仕方はまったく変わるはずである。

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■的臣(いくはの・おみ)・・・その名のとおり弓矢の的をトーテムとする氏族であり、その居住した地域は生葉(いくは、今の浮羽郡)から日田盆地かと思われる。この生葉という旧地名が問題の木の葉線刻となんらかの関わりを感じさせる。

■日下部氏(くさかべ・うじ)・・・日田市に残るだんわら古墳に関する郡史に出てくる。靫負部とされており、中央大伴氏(聖徳太子時代の大伴金村や歌人大伴家持、武人歌人大伴旅人で著名な氏族)の九州における配下である。これも弓を得意とした。

■葦北国造(あしきた・こくぞう)・・・大伴氏を「吾が君」と呼んでいた記録のある熊本県八代から芦北地方の首長。弟は百済の官吏であった日羅。その出身は吉備王の弟一族であることが記録にある。
おそらく阿蘇ピンク石管理に関与した一族。
このほかに■江田船山古墳の被葬者が出自の想像可能な氏族。
■菊池川産の阿蘇凝灰岩を切り出した一族も玉名あたりにいた。
■海部(あま・べ)・・・のちに海部氏に管理された?尾張、熊野、豊後の海人族。

などが円文装飾に関与した一族だったと今のところ考えられる。
時代的には、古墳の造営にはほかに、万田(茨田)部や土師部も関わったかも知れない。万田は中津市上ノ原に地名がある。
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画像上から
福岡県朝倉郡夜須町砥上観音塚古墳
大分県日田市穴観音古墳
久留米下馬場古墳
福岡県朝倉郡日ノ岡古墳
大分県玖珠町鬼塚古墳
福岡県飯塚市川島古墳
福岡県上毛郡大平村百留横穴墓
熊本県人吉市大村横穴墓

各地域によって円文の様式には差があるが、非常に広範囲に好まれていることがわかる。
こうした九州独特の装飾の中で、九州に地縁の薄いはずの豊前地域の渡来系氏族が線刻画を刻まれたのはいったいなぜなのか?
答えはまだない。

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