これはまだ九州北部と瀬戸内・日本海とに限った分析であるが、5世紀から6世紀かけてほぼ同時代(倭五王時代)に、豊前上毛郡の穴ヶ葉山古墳群を中心として、線刻画を持つ人々と、円文を持つ人々のすみわけと共栄があったらしき痕跡を証明しようとする試論である。

論拠として『豊前市史』(豊前市史編纂委員会 平成五年)における小田富士雄の豊前穴ヶ葉山古墳についての論考と写真、図表がある。

まず第一回として穴ヶ葉山1号墳の線刻壁画の画像に刻まれた「下向きの木の葉」から見ていただく。
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葉脈の様子から木の葉は下向きに描かれている。豊前の場合、木の葉が下向きが多く、鳥取などでは上向きもある。右は鳥と魚である。
この古墳群は先に考察したように旧豊前国の塔里推定地に位置し、近くに円文を持つ民衆墳である百留横穴墓群がある。山国川を隔てて対面する中津市上ノ原にも同様の横穴墓群が存在し、宇佐市にも四日市横穴群、貴船平下の裏山横穴墓群、さらに観音堂横穴墓群も存在する。
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画像は上から
大分県国東市伊美鬼塚古墳(『豊前市史』『大分の装飾古墳』国東町『鬼塚古墳』保存修理報告書で確認一致)
大分市千代丸古墳
国東市伊美鬼塚古墳
鳥取県装飾横穴群
同じく鳥取県各所
※千代丸古墳の線刻画は他と比べて系統が違うと言う見方もある。
※『豊前市史』には誤記が多いので注意が必要。まだ線刻画関連だけしか見ていないが、上記古墳名と、以下に添付の図表にも一ヶ所誤記があった。

このように同系列の木の葉や群鳥、鳥、船、魚(サケか鮎か?)、人物(おそらく熊本県の彫刻壁画に多い大太の図案化)などの線刻画を描く人々が、日本海、瀬戸内にまで点在するのであるが、中でも最近注目されてきた鳥取県、島根県の線刻横穴墓群との深い交流が感じられるのである。
その分布図を作ってみた。ベースには便利なので小田の分布図を使用し、加筆彩色、さらに円文を持つ古墳・横穴もピンク色で併記してみた。

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このように円文装飾を持つものと線刻画を持つものが豊前地域で交差しているのである。

次に道の駅豊前おこしかけ(豊前市)にある首長墓である黒部6号墳の船の線刻画である。
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ここは小田の意見でも秦部と勝姓の多かったもうひとつの「かしきえ里」比定地である豊前市黒土町(現地名表記は久路土)に所在し、隣接地区は塔田であるから、穴ヶ葉と同様、加目久也里の秦首と深く関わった氏族の古墳であろうが、ここにも船の線刻画が刻まれている。「加目久也里」は加自久也里の誤記であるとされており、読みは「かじくえり」あるいは「かしきやり」だとされ、本来の意味は「炊き江」=飯を炊いた川辺の意味になるが、その真意は、たとえば推古天皇の名が「かしきやひめ」であるように炊飯、とは神への「みけ」であるから、郡名の「かみつみけ」に合致するし、現在も残っている吉富町の三毛門(みけかど)地名にも合致する「八幡神への神饌」ということでついた地名だろう。また「里」と書いて「り」と読むのも小田の推論が言うように秦氏=新羅系からくる新羅的表記と読みだと思われる。

以上、秦氏に関わる氏族や部民が円文装飾や線刻画を墳墓に描いたことはほぼ間違いないことがわかる。

では九州の有明海沿岸に多い壁画装飾を持つ古墳が、豊前から鳥取にまで及ぶ海岸部地域に広がる線刻画の人々と同居していたのはなぜか?秦氏が治めるようになる以前から、そうした文化はあったのか?つまりこれらの古墳と同時代の倭五王の西の宰相だったはずの靫負大伴と秦氏には関係があったのかが問題になるだろう。
しかし豊前以東の線刻画には大伴系豪族が好んだ靫や弓や馬の絵がないのである?
先日書いた小倉南区の城野遺跡の大方形周溝墓の氏族との関係は?
いよいよ豊前が面白くなってきた。3回シリーズ予定。次回円文地域の分析。最後は海の民・船の民と装飾葬送習慣の謎。

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