九州国立博物館にようやく埼玉県稲荷山鉄剣がお目見えした。江田船山古墳鉄剣とともにようやく東西の英雄の持った二本の国宝剣が揃ったことになる。
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雄略大王の五世紀、その名が刻み込まれた二本の鉄剣が揃った「九州の国宝展」はいよいよクライマックスを迎えているが、雄略がモデルとなったと考えられている伝説の人物がヤマトタケルである。
倭五王が鉄を求めて東へ西へと征討したことは『宋書』の倭王武の上表文に詳細に記されている。
ヤマトタケルと景行天皇の熊襲征伐は、まさに二代に渡って南九州の製鉄技術を奪うための旅だったのである。つまり「そでいみずから甲冑を貫き・・・」である。

倭王五世代に渡る西と東への征討コースをヤマトタケルもまた父王景行のあとを受けて遠征の旅に出る。その子、仲哀もまた九州へと旅に出る。

5世紀、東西の雄といえば西は靫負大伴、東は膳臣である。
靫負とは靫(ゆき)を背負う・・・つまり弓矢の達人集団だった的臣や日下部臣を従えた葦北国造をさすのではあるまいか?

的臣(いくはのおみ)はその名の通り弓矢集団であろう。その名は地名・浮羽郡として現在も残っている。日下部は日田市にその記録が残っている。いずれも鏃や甲冑を作る製鉄氏族を従えていたのであろう。

となれば南九州人吉から南にいた熊襲とは球磨郡の武族と曽於郡の隼人だったのだろう。南九州の先住鉄の部族をまず最初にこの国に来た倭王が平らげたということになる。これはなぜか日向三代の天孫ニニギノミコトが最初にトヨタマヒメを娶るという政略結婚にまさしく符合してくる。

ところが大和に東征したあと、おきざりにされたトヨタマヒメの弟である小椅命は兄弟から暗殺された。ヤマトタケルもまた双子の兄弟であるオウスをなぶり殺しにした。まったく符合する。その小椅命は大阪の鶴橋にある日本最小の橋を神格化した人物である。その橋を作るのが実は阿多隼人である。今もそこには大小椅命の胞衣塚が建っている。秦氏にかかわりの深いあかる比売を祭る比売許曽神社の前。
球磨族がどこのどんな氏族かはほとんどわからないが、熊野の一族だと言う学者もいることから、熊野にいた先住氏族はのちに東海から東国を牛耳る尾張氏である。
隼人も朝廷の警護者で雄族になったが、尾張氏ものちの継体を擁立するほどの名家であり、しかも不思議なことに彼らの祭る神社である熱田神宮にはヤマトタケルの草薙剣がある。

さきたま古墳群・・・ヤマトタケルは茨城県の花崗岩の山(砂鉄の元)である筑波山にまで出かける。筑波山麓は利根川水系によって砂鉄を銚子にまで流しだすが、利根川水系を遡れば武蔵丘陵を駆け上がり埼玉県に達するのである。
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あまりにも合致するこの部分の考古学と日本書紀。これで古代史の謎の半分は解けたも同然である。