以前ここで勝山地名渡来由来を考察したことを覚えている方もおられよう。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50082616.html
豊前にも旧仲津郡、今の京都(みやこ)郡勝山町がある。
そこは豊前国秦氏管理者が最初に集結した場所であろうかという証拠として、二つの大古墳が存在している。勝山黒田にある綾塚・橘塚の二つの古墳である。
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ここの石室構造は九州本来のものとは若干異なり、石棺と石屋形の併用が興味深い。また素材も九州に多い凝灰岩ではなく(石棺だけが久住の凝灰岩)花崗岩である。
九州独自の装飾もなく、丹が塗ってあったかもよくわからない。穴ヶ葉古墳のような線刻もない。
要するに総合するとこの大円墳は中央から早くに入っていた秦氏管理者一族のものだったと思えるのだ。

そもそも地名の勝山も黒田勝も秦氏の長の名前になっている。勝山黒田という地名は黒田勝から来ているのだ。だからこの隣接する二つの円墳の被葬者は黒田勝のトップだったと考え及ぶはずだ。

見てきたような九州と中央の様式が合体していることから、彼等がかなり地元に深く入り込んでいたことは想像に固くあるまい。それは筆者が塔理に比定した上毛(こうげ)郡大平村唐原(今の上毛町)の穴ヶ葉古墳群三基よりも巨大で、より中央的である。

また香春古道の築城基地近くに堂がへり遺跡・船迫窯跡にある小さな円墳群は、彼等が赤土地層のここを選んで土器などを作り祭司してきた痕跡である。

このように京都郡に国府が置かれたのは、いち早く秦氏の部族長が入って、地元住民と融合し、それだけの基盤を作り上げてきた結果だと見えるわけである。
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しかし秦氏はその後、ここからいなくなった。資源採集が無用になったか枯渇したためである。その移動先は東北、東国、そして豊後以南の方向が考えられる。筆者は今、東北と大分県に異常に多い佐藤という姓に注目している。

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