胞衣(えな)とは、前にも書いたが、胎盤と臍の緒である。
江戸時代くらいには胞衣を家のどこに埋めるかが決まっていた。
「生児の本命の相性の吉方、またあきの方位に納めるがよい」(高嶋易断『神宮館家庭暦』)
「あきの方位」とは「あきのかた」と読み、恵方を言う。
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「御ゑなは、御日がらしだいに御吉方へおさめ」(『御水尾院宸記』)

「吉方天徳、月徳、天道之地吉、又云、月空吉方、己上判方見暦」『拾介抄』

「凡(そ)胞衣、宜(しく)蔵干天徳月吉方、深埋緊築、令児長寿」(『倭訓栞』引用『崔行功小児方』)
 これらはみな中国の思想である。

『産所記』には胞衣を納める吉方が、いちいち日によって明記されている。
それが江戸時代だけのことだったわけではない。実は古代からどこに胞衣を埋めるか、貴族ならどこに胞衣塚を建てるかが決められていたようである。

鹿児島県肝属郡では胞衣塚を「イヤ塚」と呼び、筥(はこ)に納め、白砂青松の浄いところに埋め、標に松を植えた「神木筥松」がある。
奈良盆地では胞衣を捨てる場所が決まっていた。胞衣捨て場。これを「ヨナボウリ」と言った。
そこは環濠集落の濠の中(大和郡山市白土)、僻地に壁をめぐらしそこに捨て場、胞衣藪(えなやぶ)を作る(奈良市明治村・桜井町)。これは清潔法という法令が決まってからだと「奈良県風俗志料」にある。この法令は明治28年に出されたものだが、実はその風習自体は古代からあったと見られ、明治の法令はやっとその場所が定められたものである。

京都は特にこの風習が盛んだった。また渥美半島も土瓶に埋めていたらしくそれを「馬捨場」「カリヤ畑」「カリヤブタ」と呼んでいた。そこは村はずれの雑木林の中であったと言う。それは直径1、2間ばかりの大穴で、そこに産後のすべての不浄物、産湯、腹当てなどが捨てられた。

胞衣には不浄という意味もあったが、生命を生み出したもの、生命力の源という発想もあり、それを恵方に埋めると不老長生の魔よけになると言われてもいた。縄文時代には死産児を住居内に埋葬する習慣があった。千葉県松戸市平賀塚からそれらしき西側の壁近くに埋められていた痕跡がある。(縄文時代鵜初頭)ここは廃屋であったかというと、そうではなさそうである。廃屋に埋める風習は「廃屋墓」と言う。しかし生活空間に胎児が埋められた例は千葉県と埼玉県黒谷貝塚にしかない。

胞衣塚は各地にあって、継体天皇やらの大王・天皇クラスのものはその生命力が魔よけになるとされ、神社の西側などに埋められ、社や塚、祠になる場合がある。
参考文献 木下忠『埋甕』雄山郭 2005

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