旧暦10月を神無月と書いて「かむなしづき」→「かんなづき」と、出雲に全国の神が集合すると考えられ始めたのはいつごろからだろうか?
民俗学の新谷尚紀氏の「民俗学の王権論 「外部」としての出雲を必要不可欠とした天武の大和王権」広瀬和夫・仁藤敦史編『支配の古代史』学生社 2008から

◎この論説をざっと読んだところでは、万葉集時代あたりまでは神無月は神「奈」月ではなかったかと筆者は感じた。この「な」は、新谷説では助詞「の」であろうと言う。神の月というのがもともとの意味だというわけである。事実、万葉集、古今和歌集には「かんなづき」「神無月」「十月」で始まる歌は四つほどあるが、その大意はみな「神を祭る月」としている。そのうちの古今の二首が醍醐天皇の延喜5年(905)献歌で、「神無月」表記である。

神無月 時雨もいまだ ふらなくに かねてうつろふ 神なびのもり 読み人知らず 253
神無月 時雨に濡るる もみぢ葉は ただわび人の 袂(たもと)なりけり 凡河内躬恒 840

◎これが万葉集では二つともが「十月」と書いてかんなづきと詠ませている。従って、神無月表記になったのは万葉集の奈良時代から古今和歌集の延喜年間に至る間の変化だったと考えられる。
上の二首、万葉集の二首に共通しているのが、神無月が「時雨」に掛かる枕詞であることだ。ここから出雲と言えば神無月、神無月と言えば時雨、という連想が古代から中世にかけて常識化していたことだろう。旧暦10月は現在の11月になるから、日本海側では時雨る季節。

上の句に「神なびのもり」という句があるが、神なびとはもちろん甘南備のことで、神奈備であり、カンナビ。やはり「無」は「奈」で「の」という意味だったのだ。

◎それがなぜ、神がいなくなる月というふうに変化したのだろうか?
神がいなくなるから神無月という記録で最も古い例は、1135~41年に成立した藤原清輔の歌学書『奥義書』である。しかしその後の『徒然草』1330年頃にはそのような記述はまったくない。そして1366年の釈由阿『詞林采葉抄』に
「全国では神無月というけれど出雲では神在月(かむありつき)といい、この大社の祭神はスサノオである。しかし出雲ならイザナギ・イザナミもおられるし、まして天照「太」神でもなく、なにゆえ出雲のスサノオという第四子のところに集まるのだろうか、疑問だ。」と出ている。

作者は神無月に納得していないようである。ということはこの時代には出雲・神無月・神在月は一般に定着していたと見られる。そしてもうひとつは、今ではオオクニヌシの社と認識されている出雲大社が、こ時代あたりまではスサノオが祭神だったことがわかるのである。

◎オオクニヌシでなくスサノオが祭神だとすると、大変困ることになる。なぜなら、肝心の『出雲国風土記』では、スサノオはあまり重要な扱いを受けていない。出てくるのは一部。ヤマタノオロチ退治など微塵も出てこないし、オオクニヌシの国譲りさえ出てこない。
ただしスサノオの眷属という人物は山ほど出てくる。

これはまず、スサノオが今は大社神殿の外側にいることから想像は可能である。つまり記紀の記述にあわせてオオクニヌシにスサノオが国家を譲ったからである。そして国譲りが出てこないのは、そうすると出雲自身がそれを認めてしまうことになるからだ。立場の違いに過ぎない。やられた側がやられた事実を書くはずはない。

◎結論として、旧暦十月に出雲に全国の神が集まると言われ始めたのは平安時代以後、醍醐天皇までの間となるだろう。つまり怨霊思想まっさかりの時代なのだ。
ということは、推して知るべしで、やられた出雲神の祟りが起きぬように、そうしようということに徐々になっていった・・・と考えられるのだ。だから神無月はもともと「神の月」=神を祭る月であったが、出雲に気を使ってか、あるいは出雲自身のアイデアか、神が出雲に集まって全国にいなくなる月=神無月に変化したのだということになるだろう。

◎神がスサノオからオオクニヌシに変わったのはもちろん記紀成立以降だと言える。出雲=葦原中津国がもともとは天孫の祖先のものだったから返上させたという虚偽を言いたいからだろう。


◎ちなみに伊勢神宮が完成するのは出雲大社より遅いことは間違いない。
天武が伊勢天照「太」神を遥拝したのは壬申の乱の時だが、当時、まだ伊勢神宮は建てられていなかったというのは歴史学の常識。さらにその後、持統天皇が伊勢巡行するが、おそらく伊勢に宮が建設されたのはこの時だろう。この御幸の真の理由は以前も書いたが、信濃副都心計画があったためである。なぜ信濃に副都心を天武が置こうと考えたかというと、兄貴の天智が唐に大敗して、唐が責めてくるという強迫観念が世間に残っていたため、あるいは天武が諏訪の渡来人が経営していた馬牧による騎馬軍隊に興味を持った(信濃北部の高句麗式積み石塚がある大室古墳群の目の前は馬牧があった)、あるいは岐阜から諏訪にかけて多品治以来、多氏の軍団がいたからここをイザという時の避難場所(今で言えば避難シェルター)に仮想したから、など種種考え付く。

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