先住民族の定義

1 古来、ある土地に住んできたこと
2 現在「その土地において」、国民国家のなかで異民族の支配下にあって独自の生活様式などを自由に享受できない状況にあり
3 自ら先住民(族)と名乗る、あるいは国連や支援団体によって先住民(族)とされている集団
(スチュアート・ヘンリー「都市のインディアン -カナダとアメリカの政策と先住民の都市化」『先住民と都市 人類の新しい地平』第四章 青木書店 1999)

先住民族が、あとから来た圧倒的優位な立場にある「異民族」によって保護されるとき、そこには二つの相反する問題が生じる。
それは「同化」させるのか「保護」するのかである。

一般人は、同化と保護を、おおまかに少数民族保護政策として同一の概念であると思い込む。しかし、実際にはこの二つの概念は、保護される側から見れば、まったく意味が異なる。

同化させるとは、その言語、風習、生活様式、衣食住に至るまで、自分達「異民族」から見て、まったく違和感なくすることであり、保護のひとつの手段ではあっても、独自の文化保護とはまったく相反する概念である。保護にはもうひとつ、先住民の住む空間を囲い込み、そこでこれまでどおり風習、生活を続けてもらい、干渉しないという手段がある。しかし実際には、その風習は観光化してしまう場合が多く、彼等自身もそれを収入という近代的報酬観念に組み込んでしまう例が多々ある。まして保護地域を設定するということは、ある意味、動物に対する自然保護区的扱いになりかねない。

もちろん「異民族」側から見ると、これらの手段に使われる資金は税金であって、それも決して安価では対応できない。つまり「高くつく」のは間違いない。

保護と同化の選択は彼等自身が決めることであり、決して押し付けるものであってはならないが、それゆえに一層難しい問題を孕むことになった。

こうした中で、先住民族自身の中に「都市化」の移住が頻繁に起きてくる。つまり自ら同化を望む者が多く見られるのである。こうなると血脈すら大きく変化してしまい、保護そのものが有名無実化してしまう。

安易に動物保護と比較することはできないが、動物の場合は囲いそのものがストレスを与えたり、種の保護のために麻酔薬を使ったりすることになる。また動物愛護と保護には圧倒的な次元の相違がある。そして後者のほうが圧倒的に金と神経が必要になる。動物愛護とはメンタルな愛好家である必要はむしろなく、冷徹で、科学的な、感情を抜きにした、広い視野があればよい。その意味で愛好家は邪魔になるが、金銭的献金などででしゃばり、力を持つ場合もあり、彼等そのものの扱いにも頭が悩まされている。

人間の場合、観光用に、先祖からの儀式をやって見せたりして生活は潤う反面がある。その意味で保護団体の出る幕はなくなる。しかし、その儀式は結局形骸化されたものであり、そこに臨場感はなくなる。


以上

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日本では縄文人や旧石器人は当初同化せず、主に列島の周辺部に、無用な争いを避けて移住した。その後「異民族」の方が彼等の土地に開拓の名目で移住し、自然に交配が進んだ。その同化は現在も進行中である。移住したのは主に渡来と倭人である。