関東には「かわらまち」という地名は少ない。あるのは茨城県や神奈川県などの周辺各県で、北関東となるとほとんど存在していない。
東京でも千住に一ヶ所あるきりである。
しかし、江戸・東京の場合は台東区新吉原、中央区墨田区が、地名こそないが河原にあたる。
千住河原町は江戸時代から形成された材木商とヤッチャ場(鮮魚・青果卸売り市場)が存在し、今の千住大橋のたもとには渡し守がいた。貨物駅があって、金毘羅さんが祭られていて、水害が多かった。遺骨が山ほど出るので「コツ通り」という商店街まである。
1927年、市電・南千住車庫工事にともなって大量の人骨が発掘される。泪橋(なみだばし)から南千住にかけては、かつての隅田川貨物線の立体交差と奥州街道拡幅工事があって40体が出土したために大通りを「骨通り」、商店街を「コツ商店街」と通称したというなかなかステキなところである。

かつての回向院(えこういん)別院、今の延命寺に首切り地蔵なるお地蔵さんがある。1774年、ここでかの有名な蘭学者・杉田玄白と前野良沢らが、処刑者を腑分けしたと記録にあるから、千住は『解体新書』完成の大いなる立役者なのだ。その処刑者たちの中には、これまた著名なネズミ小僧次郎吉、高橋お伝(この人は明治の人)、腕の喜三郎などの「有名人」の名がある。どっちにせよそういう刑場があった。

また裏側は吉原遊郭である。まさに日本橋川の河原だった、芦原である。
楓川と日本橋川が合流する三角の州の角が江戸橋広小路で、渡れば日本橋の魚河岸。
遊郭はたいがい昔は川岸の魚河岸跡地や芦原の湿地帯・・・つまり「悪しき場所」に作られた。これは建前では湿地帯開発が起因するが、本音は刑場と深く関わる。アシの生えるようなどうしようもない湿地帯とは、とりもなおさず河原であり、川が流れる場所を断首の刑場としたためであり、それに関わる人々に憩いの場を提供するのは、一種の犯罪防止策でもあった。その道のプロがいれば、町屋が襲われる心配は減る。まして首切りなんぞは殺伐とした仕事で、必ず下級武士が世襲したうえに、実際の執行人や処理係はエタである。それで両国や広小路、吉原は相撲小屋、芝居小屋、かんざし職人、花市場、食べ物や、あげ弓場などといった遊興関連業種が集まって、賑わう下町都市を形成することとなる。いわゆる時代劇で一番事件が多い場所。スラムもここ。色街と言えば聞こえはやらかいが、その多くはだいたい飯盛り女の兼業である。つまり「かしぎ=メシ盛り」屋の女が夜は「姫」に変化した。要するに「かしぎやひめ」が「よとぎ」の相手になるのは、推古女帝=かしぎやひめが巫女で、夜の間、死んだ天皇の夜伽=祭祀をしたという故事があるからだ。

身分は違うし、職業も違うけれど、夜中に、なぐさめるという点では花魁も芸者も巫女も斎王も同類となってしまうのが民衆の小粋な反駁心というもの。

慶長年間の記録には吉原は葦原と書かれている。葦原と書いて吉原と読ませる。植物のアシも、いつのまにか「ヨシ」に変化するが、それと同じ。「アシ」は「悪しき」に通ずるからだが、吉原の場合、そこが実際湿地帯で足元の悪しきところだったからである。アシが生えるはらっぱなら湿地帯に決まっている。そしてそこには河原者、処刑場が集中するものである。
奈良の吉野の場合は天皇が逃げ込む場所になるが、あれは縄文の故郷東国に通じる道があること、そこに東国縄文の末裔たちがいたから「葛」の郷であったのが、吉野になった。南朝が隠れ住むのは、当然、天武天皇のむかしから、そこに縄文=東国=武家ネットワークの入り口、出口がまだあったからにほかならぬ。

台東区はかつて在日も多く、下谷に万年町というところがあったのだが、新宿三丁目の伊勢丹裏あたり、新宿ゴールデン街あたりを徘徊するおかまちゃんたちのメッカだったことは、下谷生まれの作家・唐十郎もちゃんと自伝に書いている。

つまり歓楽街は、かつての穢き場所・・・ケの場所に建設されてゆく。河原町にはそいう意味があるのだ。ハレの人々は近づかないところ、すなわち「後戸」である。浅草寺などもそういう鎮魂と鬼門の神である。

隅田川から東は江戸ではないなどと江戸っ子は言うのだが、江戸という地名自体、実は穢土に通じ、浄土ではない。湿地帯で、関東ローム層の、火山灰の大地で、実は平地も少なく、古代には見向きもされていない。武蔵の蛮族・・・つまり縄文人と霞ヶ浦の海人族しかはいらない。

東京ディズニーランドのある千葉県浦安などは漁師町で、海人族の本拠地である。今や、魚ならぬネズミのショーが開かれているから、現代のウオーター・フロント開発なども、江戸時代と同じ潮止め対策や湿地帯開発とかわりはない。ただレジャーランドの様式がちょっと変わったに過ぎない。

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あのですね、筆者、どの土地もちゃんと行っておりますから。空想で書いておるわけではありません。
船橋なんぞララポートできる前から、浦安もランドができる10年前に赴いております。それこそ船しかなかった。

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栗本慎一郎などに言わせれば向島は闇の世界だそうであるが、両国橋はいわばこの世とあの世を結ぶ修験の橋である。向島はかつては死者の世界であった。東京の人は神奈川の大山へ大山詣に行くけれど、両国橋のたもとで水垢離したものである。異界の入り口で潔斎沐浴をして、いざ聖地へ向かうのは、要するに死出の旅の予行演習するわけなのだ。
向島とは川向こう=彼岸なのである。つまり黄泉の国だった。

隅田川河畔には明暦の大火で、川に飛び込み、死んだ人々の魂と遺骨が埋まっていると、杉田玄白が書いている。ここに集めたのである。関川に。
心して遊びにいきましょうね。祟られぬようにね。ちゃんと拝むんです。

「頼朝以来のエタ」と自称した穢多頭弾左衛門(えたがしら・だんざえもん)は、元日本橋室町付近に住まったが、家康入国からは浅草鳥越に引越し、結局、さらに北のここ山谷堀に定住する。それからこっち、隅田川や両国は職人、在日、渡来人技術者、芸能民、遊興関連芸能者がつまるようになるスミダ。
なお、鈴ケ森=かつての刑場、麹町=かつてのクルワ、神田鎌倉河岸=かつてのクルワ、大橋=同じく

参考文献・資料 浅井了意『むさしあふみ』
斉藤月岑『武江年表』
宮田登『浅草寺日記』
松浦静山『甲子夜話』
『柳花通史誌』
中村芝鶴『遊郭の世界ーー新吉原の思い出』など


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