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画像上から 虎塚古墳遠景
東壁装飾
西壁装飾
東壁装飾書写
西壁装飾書写
周辺古墳群分布図
玄室から玄門
石室正面装飾

所在地 茨城県東部 ひたちなか市(旧常陸国那賀郡・今の仲地域)大字中根字指渋(さしぶ)那賀川沿線 上流は栃木県那須岳
周辺の主な古墳 虎塚1~6号墳(分布図■は3・4号墳で方墳、●は円墳、虎塚古墳は1で唯一の前方後円墳)  11●は笠谷古墳群 点在する△は十五郎穴横穴古墳群

なお虎塚古墳からは小太刀、刀子(とうす)、やりがんな、毛抜型鉄器(ピンセット的な鉄器)、鉄鏃(やじり)、透かし入り鉄板などが遺骨とともに出土。石棺はなく、遺体はそのまま床に置かれていた。古墳石室は横穴式。このほか玄室外からも大量の鉄製品が見つかっている。全長56.5Mの前方後円墳で推定7世紀造営。発掘は高松塚古墳のすぐあと1973年。発掘者は鴨志田篤二氏を中心とする東京国立文化財研究所。

被葬者は那賀国造家の意冨氏の族長・建貸間命(たけかしまの・みこと)の子孫と推定されている。

『国造本紀(こくぞうほんぎ)』によれば那賀国造は伊予国造と同祖で、成務天皇(せいむ・てんのう、景行天皇子、ヤマトタケル異母弟、2世紀)によって「仲国造」として派遣されたと記録がある。神八井耳命子孫の多氏系譜で、神武直系氏族(志田諄一)。

『常陸国風土記』行方郡条に、建貸間命凶族討伐エピソードがあり、その時に唄われた「杵島唄曲」は九州阿蘇連山の杵島岳をなつかしんだものであるため、多氏系譜の那賀国造が九州肥前の鹿島あるいは、肥後阿蘇周辺から来たが九州の古墳様式である横穴式構造と装飾を持ち込んだと推定できる(大場磐雄)。
那賀国造のテリトリーには虎塚のほか、吉田古墳、金上殿塚古墳が装飾を持っている。

杵島唄曲は阿蘇のような遠隔地とは無関係の「嶋杵」の誤記であると解釈したのは橋本雅之であるが、この説にはかなり無理があり、評価できない。なによりも肥前・肥後では杵島は鹿島と同意であり、双方に鹿島、杵島、山鹿などの地名が多く、それらはみな、阿蘇の杵島が岳由来の地名であるし、『肥前国風土記』逸文には「杵島曲」の言葉が見える。また『常陸国風土記』筑波郡条の文体、構成、漢文修辞は『肥前国風土記』逸文杵島山条とそっくりであることなどから、鹿島=杵島、那賀国造は肥前からという説がきわめて有力である。

那賀国造が伊予国造と同祖であると書かれているのは、伊予国造らが多氏系譜として『古事記』も記載しており、神八井耳命が日本最古の天皇である神武の長男であることからも、那賀国造を含む多氏系譜が、最古の王家があった九州由来を意識していたことは否めない。

ただし神話では、神八井耳命には、その前に異母兄と姉がおり、それが九州南部の系譜で、神武の最初の后であるにも関わらず、その長子を暗殺している記事があること。また同じ南部の先住氏族らしき日子八井耳命系譜を兄弟とすること。などから多氏が南九州の熊襲や隼人の海人系縄文先住民を粛清平定していたことが考えられ、北に入った新着渡来が南の縄文系を滅ぼし九州統一したと考えれば、多氏は景行天皇やヤマトタケルに比定することも可能である。またもっと言うなら、景行=多氏が狗奴国を平定した邪馬台国の王(多)だったという見方すら出てくる可能性がある。景行天皇の子供である成務天皇が那賀国造を派遣した記事もそういう先行した神武枝族出自の意味が隠れているのだろう。自負ではあろうが、最古の氏族としての信憑性も当時あったはずであろう

鴨志田は鹿島神宮も、中臣氏、藤原氏よりも那賀国造の尽力による創建の可能性を示唆している。

「あられふる 杵島が岳を峻しみと 草採りかねて 妹が手を執る 是は杵島曲なり」肥前国風土記逸文

参考文献 鴨志田篤二『虎塚古墳 関東の彩色壁画古墳』同成社「日本の遺跡3」2006

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HPで「あらふれる」と二箇所ほどに書いてしまったが、「あられふる」の誤記である。訂正。
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/yhazu%20yahagikara.html
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/settutokeitai.html

なお、築造年代について後日、二次発掘参加経験者である以下の読者から貴重なご意見をいただいた。
「報告書は"7世紀造営"としたかもしれませんが、それは追葬の時期で、墳丘からかなりの量出土したTK209型式が築造年代を示すと思います。6世紀後葉~末程度ではないでしょうか。」

「発掘者のなかに鴨志田篤二氏もいましたが、明治大学考古学研究室の大塚初重助教授(当時)が主体となって実施した調査です(私も二次に参加しました)。東文研は内部の気体の分析など理化学的な調査を支援しました。」
ということである。追葬があったことは未知であった。
情報感謝申し上げます。この方のサイトを紹介して礼に代えたいと思う。
http://www.fieldnote.info/




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Kawakatu’s HP   マジカルミステリーコレクション渡来と海人 
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/index.html