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古代の製塩地帯分布
大陸の塩釜分布
塩釜の分割鋳造『両准塩法志』


日本の製塩法は最初、藻塩から始まる。
海水をふくんだ海草を天日で乾燥させ、塩の結晶を集めて、そこに海水をかける。したたった水をかん水と言い、これを土器で煮詰める。
海草の代わりに砂を利用する塩浜法がつぎに現れる。このときから土器は塩釜に移行した。
当初は塩釜は土釜で、九州南西部などでは竹鍋も使われた。
江戸時代のはじめに入浜式塩田が開発される。瀬戸内沿岸が特に立地条件(少雨・好天)に恵まれ著名で、十州塩田(じゅっしゅうえんでん)と呼ばれた。

記録上、わが国最古の塩釜は奈良時代『正倉院文書』にある鋳鉄製鉄釜である。
口径6~9寸、厚さ4~5寸、深さ1寸というホットプレート状の鉄板で、周囲に盤帯という淵がある。中国からの舶載品。これを竪穴式のカマドの上に乗せて、下から煮沸し乾燥させる。
千葉県の金谷神社ではこれを大鏡と考えられたらしく「鉄尊さま」と呼んでご神体になっている。海中で漁師が見つけ、引き上げようとしたら二つに割れたと伝えられる。もっとも巨大で重たい塩釜は、往々にして分割鋳造して溶接して使ったことが中国の『両准塩法志』に図の記載があるから、比較的割れやすくもあっただろう。

宮城県の塩竃神社には四基の鋳鉄製塩釜が祀られている。こちらは国内産。

大陸の分布図を見ておわかりのように、土釜は朝鮮半島から、竹鍋(網代あじろ釜)は長江南方から、鉄釜は会稽周辺域からの伝播であると考えられ、竹鍋の日本での分布が九州南西部つまり熊本県南部から鹿児島県にかけて広がっていることから、江南海岸地方と熊襲隼人のいた地域との交流が早くからあったことが見て取れる。同様に半島南部の海岸地帯も竹鍋分布域である。製塩の手法は江戸時代あたりまでほとんど変化がなかったわけだから、新しい時代の分布であっても、古代から永続的に続いた可能性が高い。


となるといわゆる「倭の北岸」の海人系倭人族と熊襲・隼人には共通の文化が東シナ海経由で伝わったことになる。非常に示唆にとんだ分布だと言えるだろう。


参考文献 新日本製鉄広報企画室編『鉄の文化史 五千年の謎とロマンを追って』東洋経済新報社 1984




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