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マットとケットは新潟県中魚沼郡でそう言う村民がいたそうだ。
マットはまともな平民を指す。「まひと」=真人の俗語である。
対してケットはケットーで毛人(けひと)でありクマ人・肥人などと同種、苗場山の西の渓谷・秋山あたりの村落がそれで、「秋山者」とも呼ばれる賤民である。平家落人を自称したが、もちろんそうした自称は全国的にうそである。面白いのはケットーたちの相貌が、「身体長大、色白く、眼は青味を帯び、毛多く、頬骨が秀でている」(喜田貞吉「「ケット」と「マット」)と語られてきたことであろうか。ちょっと聞いただけでは西欧の白人のごとくであるが、頬骨が大きく出っ張るのはツングースの特徴だし、色白だったり目の色が違うのは、長く同族結婚するからである。身体長大というのは彼らの一面で、逆に短小な者もいたであろう。血が交じらないと突然変異が多く起きる。目が青い、色が白いは、色素の不足から起こる現象ゆえ、白子とまではいかないが、やはり突然変異である。代々長く日陰の山をさ迷うからかも知れぬ。幕末になって西洋人をやはり「けとう」と読んだけれど、これも外国人を南蛮人とか唐人とかあるいは毛人と読んで来た習いで、毛深く白く、眼の色が青い西洋人を毛人にたとえた差別用語であろう。
だからと言ってケットーが白人だったはずもなく、そういうことはあまり他人に言わぬがよかろう。かえって知らぬうちに恥をかく事になりかねない。そもそも差別用語の始まりは中国の蛮族を呼ぶ東夷とか西蕃から生じた孔子儒教の恥部にほかならない。(ちなみに三国人は差別用語ではない。アジアの先進国である王国=中国・日本・朝鮮(ベトナム)を指すから勘違いせぬように。石原の言った言葉には差別意識はない。)

間人と書いてやはり「まひと」であるが、多くは「ハシタ」と呼ぶ。ハシタとは半人=中間の人とでも言う意味。今、「端(はし・はじ)」というとはしっこのことであるが、中世くらいまでは中間(ちゅうげん)と言って、どっちにもつかないはしたもののことを言う言葉から出た人種だった。町民でもなく武家でもないのが中間だったわけで、それは間人も同じこと、平民でもなく、貴種でもない、はした者つまり賤民を指すのであろう。主に茶せんやササラなどの竹を扱う竹細工師や、木地師、あるいは皮田=なめし皮職人が多かった。もちろん箕造りなどもいたという。地方によって職業によってチャセン・ハチヤ・オンボ・シュク・トウナイ・ナカマ・カワダ・ガタロ・エッタなどと呼ばれた。総じてあまり濁らない音で表現されるようだ。

ところがこの間人(はしひと)を名乗る王族や氏族が存在した。
間人穴穂部王であり、土師氏であり、馳使部氏などがそれである。
「はしひとあなほべのおおきみ」は『古事記』では埿部穴穂部皇女と表記し、用命天皇の皇后を指す。この泥と土で構成された「デイ」の文字には泥をこねて土器を作った大地母神の意味が含まれ、同時に彼女が土師氏を乳母として育ったという意味が含まれている。

つまり土師氏にはそういう土器職人としての一面と、今ひとつ、「穴穂」つまり穴師としての古墳、製鉄という殖産氏族の一面があり、「はじ」とは「はし」「賤なる者どもを取り扱う」という意味が土師部である。

長谷川党というような磯城島(しきしま)の秦楽寺にいた野武士集団は、主としてやはり間人ともいうべき、半身遊民半身山賊のごとき武装集団で、いわばならず者であり、シマを守る勝手な守備軍団で、やくざものの始まりでもあった。「はせ」とは「はつせ」であり、これまた雄略天皇が「泊瀬」を名乗るが、そもそもは山の湧き水の流れ出る「初瀬」から来る名で、つまり山奥の甲斐に潜むような氏族であったことを含んでいた。それが馳使部(はせつか・べ)という「いざとなったら馳せ参じる」家人(けにん)に昇格するものがあり、土師や埿から変化したのであるが、もともとは部曲(かきべ)であり、それらが奈良朝になって部曲開放があって、平民を許されたはしの者どもであった。

このように氏族の下にいる家人には、部曲の民が多かった。

「はせつか」が幼児用語のごとくに上下テレコになると「はつかし」となる。
まさに幼児の、靴を左右たがえて履くごとくに、教育のない人々はよくことばをを転倒することがある。
「アルバム」が「アブラム」、「からだ」が「かだら」のごとくである。関西で、言葉がかたことするざこば師匠のような人種が多いのは、渡来と蝦夷が多いからで、なめらかな発音が、子々孫々できないままに育つからであるが。彼らも」よく言葉を転倒する。

京都市の鳥羽伏見の戦いで著名な鳥羽、十条から少し南は河原者が多く、なめし皮職人、ポンが多かったことで知られるが、ここに羽束師橋という橋がかかっていて、大学時代、ときおり銭湯に入りにいったことがある。南部は非常に遅れていた京都でも、この十条界隈は職能民やくぐつ、皮はぎ職人らがたむろする穢の場所で、いわば「恥ずかしい」ところの洒落もあってか馳束部たちが多くて「はせつか」が「はつかし」に転じてしまう。

同じ京都の日本海側、丹後の竹野町には間人と書いて「たいざ」地名があるが、こちらは間人皇女が滞在したのでこう言うと説明されてはいるようだ。しかしね。
峰山から竹野は出張で何回も行き、古墳群も見せてもらったりしたが、ここもやはり「はした人」たちの集積場であろう。古墳の主は土師氏かと見るが。

「あなし」というのは例の大兵師神社のある奈良の野見宿禰ゆかりの土地だが、野見がやはり土師氏で、だからその子孫である天神さん・菅原氏の下には穴堀がいるわけである。穴はたいがい製鉄のカンナ流しに関わる地名であるから、彼らが山師だったことがわかる。

ついでながら「しきしま」というお目出度い言葉があるが、「しき」とは磯城郡であり、「しま」とはテリトリー・・・やくざがよく使うシマの意味がある。で、その敷島には秦庄と多庄が隣り合っているわけである。「とよあしはら」にせよ「しきしま」にせよ、要するにもともとの意味は非常に穢れた場所という意味だったのであろう。千代とか八千代地名もまた。

てなづち・あしなづちなどという出雲の名前も、鉱山師、土建業の土師氏由来であろう。

いずれも喜田貞吉が書いていることをそのまま写しただけのことである。

追補 
「有名な考古学者、藤森栄一の著書の一つに、「山と先住民とその子たち」がある。そこには、地図にない集落に住み狩猟と製炭を生業とした生活を続けている人達のことが書いてある。炭を農作物と交換し、子どもが学齢に達すると村の人に預かってもらう。彼らは、背が高く容貌に優れ、防寒具として毛皮を纏い、部屋の中央に炉裏を切った粗末な家に住んでいる。里を通過する彼らを見た人は、彼らの歩き方はとても速かったという。彼ら自身は、平家の落人の子孫と称しているが、里の人達は、彼らを毛人、自分たちを真人(マット)と呼んでいた。千曲川に注ぐ中津川上流にある穴藤、結東の地名はケットウとよみ、ケット=毛人から来ている。逆に秋山の住民たちは、里には人をだますマット狢(むじな)が住んでいるから近づいてはいけないと言い伝えてきた。
 鈴木牧之が秋山郷に入ったときの様子を記載した「秋山紀行」に、住民同士の話し言葉は理解できず、主人が里言葉に通訳していたこと、牧之が自分の家を建て直すときに床下の地面から大きな丸柱(竪穴住居の形式の柱の骨組)の根っこが出てきた事についての記述は興味深い。
先進文明に同化することを拒み、山中を生活の場とした山人が各地にいたことは柳田國男の集めた資料からも伺える。」
http://www.tim.hi-ho.ne.jp/m-sasanuma/naganoniigata.html




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