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この項は天智天皇と白村江がキーポイントになる。
そして現在検証が進みつつある法隆寺の金堂の失われた仏像配置が特大のヒントになる。
聖徳太子がキリストの生誕伝承とあまりにも似ている部分を解明する。
?と思われる方も多いかもしれないが、それはともあれまず筆者の『日本書紀』』における6、7世紀くらいまでの・・・つまり天武以前の記述をきわめて疑う態度を申し述べておく。

誰も書くものがいなかったことだろうが、筆者は推古・厩戸の存在も、守屋の反乱も疑っている。

ではまず法隆寺金堂の本来の仏像の話から始めよう。
最近の金堂仏像修復作業では、非常にきわだった新事実がわかってきている。
というのは、中央の釈迦三尊像はともかくも、向かって左側に現在置かれている阿弥陀菩薩像の台座には、実は聖徳太子をモデルにしたと言われる救世観音像が立っていたことが証明されているのだ。
なぜならば、阿弥陀菩薩像を修復のために台座から降ろした時、台座の上にははっきりと円形のうるしの塗り残し後が発見された。その円の直径が数ある同時代の仏像の中で救世観音の円座直径とピッタリ合致したのである。(NHKテレビから)
阿弥陀如来像はあきらかに鎌倉様式の仏像であり、法隆寺金堂の建設された時代にはそこになかった
ことは間違いない。それらは何度にも渡る法隆寺焼失を繰り返す中で置きかえられて行った。また阿弥陀仏の蓮華台は四角形で、塗り残された円形部分にはまったくフィットしていない。つまりこの台座はあきらかに救世観音を意識してそのぶんだけうるしがぽっかりと塗り残されていたのである。

さらに、釈迦三尊像の背後にはあたかも後ろ戸の神のように、聖徳太子由来の玉虫厨子が置かれていたのだという。

つまり法隆寺金堂はあきらかに聖徳太子の遺物をメインに置くためのテーマ館であることがわかったのだ。

そしてその事業を執り行った時代が天智天皇が白村江で敗北して逃げ帰ったすぐあとの時代であることもわかった。

どういうことか?
学者たちは一様に、白村江敗北によって唐と新羅が攻めて来るという強迫観念にさいなまれた天智が、宗教の統一と、それをなしとげようとした聖徳太子を神聖化し、仏教による対唐へ一丸となる政治的方向性を強く打ち出そうとしたのだと考えている。ばらばらの宗教、ばらばらの方向を向いた豪族たちの寄せ集めに過ぎなかった天智時代までの大和朝廷。それがはっきりと見えてくる。朝廷はまだ十分に確立したとは言えなかったのである。
それを天智は、大陸とはじめて堂々と対面した聖徳太子という虚像としてクローズアップし、同時に太子が推し進めた新羅仏教によるまつりごと、イデオロギーの統一という方向性もクローズアップして、大陸の列強に立ち向かう体制を作り出そうとしたのである。
九州四王子山に始まる山城、水城などの土塁建築、そして都自体を大和の不便な後ろ戸である近江国に移動させたことからも、天智の強引な聖徳太子伝説の性急なクローズアップが手に取るように見えてきた。
まさにこの時代から太子信仰の大元が始まるのである。

さらに。向かって右には鎌倉時代の薬師如来があるが、その真横にもうひとつ天蓋をとりつけた後が見つかった。取り付けようの環が天井の梁に残されていたのである。そしてこの失われた仏像を寄贈した人物の記録が見つかる。それは天智の娘、持統天皇だったのだ。持統天皇は日本最初に生きて天皇を称した人物で、最初の火葬実践者である。夫である英雄・天武の死後、彼女の時代を経て日本書紀は完成する。つまり完成した時は違う女帝だったが、その成立までのほとんどの期間、彼女と藤原不比等には、その内容に影響力を持つことが可能だったと言っていい。しかも完成時の女帝も持統天皇の娘だった。つまり父・天智が行った聖徳太子聖人伝承の上塗りが彼女には可能だったと考えてよいだろう。

すなわち日本書紀の聖徳太子伝承は本当である可能性がほとんどなくなってくるのである。

ということは厩戸の皇子という名前自体も怪しくなる。

遣隋使以降、遣唐使のはじめのころ、日本の使者たちは、中国において膨大な書籍を、おおあわてで、買いこんだと書かれている。よほど目だったのであろう。わざわざ中国がそれを書き留めたのである。これらが日本書紀をはじめとする六国史の原本となったことは間違いあるまい。
となると、それらの歴史書や経典にまぎれてキリスト神話を含む、ユダヤの記述などもあったのかも知れない。
また、聖徳太子の四天王であった蘇我馬子、、秦河勝たちは渡来人であるならば、原典も読めたことだろう。なにより、遣隋使たちが持ちかえった史書を読まずとも、独自の海外貿易によって船人たちが仕込んできた民話や説話や聖書、外国の奇妙な話、珍話、あるいは中国が非常にえにしを以ていたローマ、インドの宗教、寓話、怪異譚などいくらでも知ることは可能であったはずである。
彼等の知識が天智に利用され、持統によってさらに脚色された可能性は非常に高い。

聖人として仕立て上げる事情はほかにもあった。
それはもちろん天智と藤原鎌足がクーデターによって殺害した蘇我本宗家の怨霊と祟りへのおびえである。
中でもゆえなくも残虐に殺した蘇我入鹿については、わざわざ「青い蓑笠を着た鬼」として『日本書紀』は内裏に出現させている。祟りを恐れる気遣いがそこに見えている。

そもそも祟り、怨霊信仰を平安遷都に持って来ることをこれまで学者たちは非常に嫌がっていて、怨霊信仰やらは平安時代からのブームだと言い続けてきたが、実は恭仁京がすでに怨霊をおそれて遷都されたことは定説となっている。

さて、気になるのは木島坐天照御魂神社の三柱鳥居であろうか。
これが三位一体のキリスト教からだという方もいるらしい。
ところがこの神社、ご神体がない神社として知られており、機織の縁から江戸時代、三井家財閥が随分と寄贈している。そしてその三井という大元である新羅神を祭る園城寺三井寺の三が大きなポイントと考えられるのである。秦氏が新羅系渡来人であったことと新羅神、善神社はもともと深く関わっている。キリスト教では機織もカイコもまったく縁がない。ましてイスラ井や元糾池での禊がユダヤ的洗礼池だなどというのは、禊池ならどんな神社にもあるわけで、偶然の一致に過ぎない。百歩譲っても上記のような知識から得られたものであることは間違いあるまい。

そもそも蘇我馬子時代には中国経由でシルクロード商人が奴婢として外来の黒人やらも連れてきており、そういう伝聞も十分考えられるわけである。

以上のように、珍しい外国の風習や習慣、宗教譚はグローバル外交の蘇我氏時代ならいくらでも手に入ったと考えられ、なにも秦氏に限ってローマやイスラエルからやってくる理由は見つからないのである。

そもそも秦河勝の存在自体が聖徳太子同様、伝説でしかない。それはもしや本人がいなくても作り出せるフィクションだったと言っていい。

もうひとつ、『日本書紀』のイザナギ・イザナミとユリシーズの酷似がある。
実はユリシーズにそっくりなお話は豊後の国にもある。
それは「百合若大臣」のお話である。
豊後の国王だった百合若は新羅へ攻めて大勝利するが、玄界灘の小島で疲れて寝ている間に家来においてけぼりをくらうという話。
ところが実は秦氏のある人物が豊後の国司だった時代がちゃんとあるのである。
まして豊後国は旧来よりボートピープルが多く潜入する場所である。外来の知識も入りやすかった。中世にもザビエルを向かえたり、代々海外に目を開く為政者がおさめる土地柄であった。それは海流のなせるわざでもあったが、新羅系秦氏のいたことも非常に大きかったのであろう。これはおとなり豊前の話であるがツヌガアラシトを祭る現人神社が豊前国香春(かわら・中沢新一はこれをかはると誤読している)にはあり、香春神社祭祀者には敦賀氏がいた。
またギリシャ神話・プロメテウスの火を祭にしたと言う国東のケベス祭なども存在する。
こうした類似は、知識から得られたと考えてよい。それは民間の海人族に顕著である。
もちろん中国から漂着したと言う徐福伝説やインドのヒンズー教やらの説話を彼等があちらで聞いてきた可能性も非常に高い。彼等・朝廷の枠外の民たちの元締めだったと思われる秦氏やらに、そうした伝聞が顕著に収集されていたと思われるのである。
それらはおもしろおかしく、のちの民話や寓話のようにして、貴族たちのあいだでも喧伝されたに違いない。娯楽のない時代に、そうした話が人々をやすらぎへと誘っていたことは想像に難くないのである。

考えて見れば、秦氏の子孫だと言う芸能者たちは秦氏の祖先を「あるち」とか「ある」とか言って、新羅の始祖そっくりに作り上げている。そういう情報を古代から中世の人々は実に漫画のように簡単に、広く知りえたのである。つまり現代人の数倍、外国について興味を持っていたということではなかろうか?われわれは知っているつもりで、実は台湾のことも、韓国のことも、今でもほとんどなにも知らない。つまり好奇心の度合いは、過去の不便な時代の人々のほうが旺盛だったと言えるはずである。

ようは『日本書紀』の書いていることをどこまで信じるかなのであろう。
中国とえにしを深めようとした蘇我時代、果たして儒教が嫌う女帝がいただろうか?
厩戸皇子という「聖人」も本当にいただろうか?
それは天智の意思と天武の意思のどちらがいつ持統天皇の中で表出したか、入れ替わり立ち代り、彼女は二人の意思の間でゆれうごく存在であっただろう。父と夫の、まるで正反対の意思の間で。ゆれる女帝を誘導できたのはただひとり藤原不比等しかいなかったのだ。

女帝でいい時代を作ったのは彼であり、それは外交なき政治の幕開けでもあったのであろう。
持統天皇以降だけが確実なのだ。
それは『続日本紀』からはまったく謎がなくなるのと同じである。
そして天皇家も、持統「天皇」から天皇家の祖先として認めているのも事実である。
それ以前のことは、彼等はあずかり知らない推測の世界に過ぎないのであろう。
私たちは紙芝居を読まされているのかも知れまい?

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