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藤原鎌足の古墳
●『日本書紀』「皇極天皇紀3年一月一日条」
「三年春正月、乙亥(きのとい)の朔(ついたち)。 中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)を以って神祇伯(かむつかさのかみ)に拜す。 再三固辭して就(つ)かず。 疾(やまい)を稱して三島に退居す。」

●『多武峰略記』
「定慧和尚、天智天皇治天下丁卯、生年二十三入唐、天武天皇治天下戊寅歸朝、謁右大臣、(不比等也、)問言、大織冠御墓所何地哉、答曰、攝津國嶋下郡阿威山也(中略)天武天皇即位七年戊寅、定慧和尚改大織冠墓所、移倉橋山多武岑十三重塔底云々」

●摂津国の藤原氏氏神春日神社と天児屋根命を祭る神社の多さ
http://www.geocities.jp/iko_kan2/shimano-shimo.html


●摂津国島上郡の藤原氏所領
『日本後記』逸文「類従国史」
「贈太政大臣正一位藤原朝臣不比等野八十七町、贈太政大臣正一位藤原朝臣房前野六十七町、故入唐大使贈正二位藤原朝臣清河野八十町」
http://www.j-texts.com/chuko/kouki1.html

●『扶桑略記』
「(藤原鎌子)安倍山を禁野とし、島下郡の藤原氏助邸を御在所とす」

●古墳石室規模は「薄葬令に合致」天坊幸彦→天坊幸彦『古代の大阪』『上代浪速の歴史地理的研究』

●発掘された冠帽は「冠位制に言う最高位の”織冠”ないし次位の”繍冠”と確認された」森田克行『今城塚と三島古墳群』2006

●当時織冠を得た人物は藤原鎌足と百済王子・豊璋のみ。天坊、森田

●豊璋は白村江敗北で高句麗逃亡。

●ゆえにこの古墳被葬者は鎌足以外あり得ない。

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付記
百済王子・豊璋には藤原鎌足同一人物説が濃厚に存在する。

地名藍野は元安威。
安威川上流域の奈佐原丘陵一帯を言う。
藍野陵とは継体天皇陵のことで、かつては太田茶臼山古墳とされていたが、今は考古学的に今城塚古墳であると言われている。
「あい」がやがて「あぶ」と変化し、今の塚原古墳群の最上段に位置する阿武山古墳が鎌足陵であろうという説が非常に有力。

ここから遺骸の頭部だけを奈良県多武峰(現・談山神社)に移したと記録ではいわれているが、実際の阿武山古墳には遺骸が完全体で埋納されており、頭髪からはヒ素が検出されている。

副葬品の豪華さは群を抜き、特に頭部から顔面にかけて大量の金モールがかぶさっていた。
これは冠帽の刺繍に使われた金の刺繍糸がほつれたものであった。

玉枕は大中小のガラス玉を一本の銀線でつなぎあわせ絹布で包み込んでいた。
X線写真から、この人物は身長164・6センチ、当時としては大柄でスポーツマンタイプ。腰椎、胸椎、左上腕骨大結節部に骨折、左腕肘関節にスポーツ肘が確認された。
左肘を使う弓、あるいは左利きならば剣術に優れた人物かと推定される。
実戦経験のある人物らしいが、武家としてな豪華な埋葬品と、なによりも赤い絹布を張った織冠帽からよほど高貴な貴種と考えられる。
実戦経験があって大職冠となると鎌足ではいささか実戦経験があったとは考えにくくなるが、鎌足が豊璋であったならば百済復興に帰国し実戦したであろうし、また中大兄皇子との「人質」関係もあったから、非常に可能性が高くなる。

結論
阿武山古墳被葬者=藤原鎌足=百済王子豊璋説は可能性が90パーセント。




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