天孫降臨神話とは何か?

古代日本がまだ有機的連合体の多くを同時存在させていられた時代、初めて「国家」を意識し、それまでの部族連合体でしかなかった状況を「ひとりの王」=「ひとりのシャーマン」に統一させようという意思が出現したことを告げる国家開闢エピソード。

このとき天孫の先導者として出現するのが、伊勢の地主神であるサルタヒコである。
なぜ彼が伊勢の在地神であらねばならないか。
それは当然、伊勢が、記紀成立時代には天皇の国家神であるアマテラスが伊勢に祭られていたからにほかなるまい。

三重県の伊勢神宮の手前にある猿田彦神社には、在地の猿田彦の子孫である地主が、伊勢造営のために土地を譲った由緒が書かれている。そして国譲りというもうひとつの降臨神話では、サルタヒコと同根であるとされる佐田大神が祭られる。出雲は当時の先住プレ国家の主要港湾である。その日本海側の有機的連合体の中心にいたのはおそらく海人族であろう。それは間違いなくと言っていいが南九州の海人族だったはずである。なぜならば、天孫降臨のあと、サルタヒコが天孫を導いたのは南九州だったからである。ここには一切、古代の最大の都市であったはずの北部九州など出てこないのであるから、当時、南九州のそれも熊襲たちがいた熊本南部、鹿児島、宮崎南部こそが最大の首都だったことになる。それは中国から見てもそうだっただろう。

南シナ海、東シナ海という中国中原に面した海こそは、南九州の白水郎と同族がいた土地だった。

海人族の、信じられないかも知れないが、海上交易の古さ、広さについては、伊豆諸島を例証にするとそのすごさがわかる。伊豆諸島とは今は東京都の管理するはるか海上に浮かぶ三宅島を中心とした、隔絶されたような海上の点の数々である。そこでしかとれないものがふたつ、不思議なことに日本の日本海側の縄文遺跡から出土する。ひとつは黒曜石、ひとつは貝殻である。南九州の海人族が日本海では南島の貝殻を朝鮮半島や新潟県、秋田県、北海道の小樽市まで運んでいたことはすでに書いたが、なんとそこからかなり離れた太平洋の島々とも交流していた、これが証拠品である。

今なぜ宮崎市のすぐ近くに日本一の古墳集中地があるかを見れば、彼ら南九州海人族の実力は手に取るようにわからねばなるまい。だから天孫は南九州のシンボルである霧島付近に降臨した。宮崎北部の高千穂は、あとの時代に彼らが北上していったから言われ始めた二次的降臨地なのだろう。そして神話はあえてそれを隠すために、ふたつの場所を書き残したのだろう。しかしながら神話はまた、天孫の最初の妻を南海の海の姫に設定している。そこはどう見ても、後になって熊襲連合体から遊離していった海山の隼人が住まっていた場所にほかならない。日向三代はつぎつぎと在地熊襲の妻を娶り、その構図は、海、山の神々のむすめだったということになっている。

その神々とは海神ワダツミや山ノ神大山積の娘であり、そこに展開される南島的なエピソードのすべては、すでに中国南部の少数民族たち=倭族、あるいは長江文明の立役者である人々、つまり白水郎とか南越人によって言い伝えられてきた民族伝承そのものである。

岩石と水の組み合わせから成るその系図はまったく江南文明が言い伝えてきた王族の構図の焼き直しにほかならない。

それは阿多隼人に代表される、かつての熊襲族。すなわち邪馬台国の南にあったという狗奴国の前身がいただろう場所ではあるまいか?

南九州海人族は、確かにずいぶんあとの時代に大和によって滅ぼされるが、それは阿多隼人ではなく、大隈隼人だった。九州の南部で大きく二度にわたり分かたれた隼人の中のふたつの氏族。そのうちの阿多隼人だけが奈良へゆき名誉を得ていたことと、在地に残された大隈隼人の、それに対する怨恨はなかったか?

藤原広嗣の乱に続く隼人の乱が、そうした永年の怨恨からくすぶっていたものと捉えるのは奇妙だろうか?あるいは神武に付き従った小橋命の子供が、腹違いの異母兄弟から殺されること。最初の妻である小橋命の妹が現地に取り残されてしまうことなどから、どう考えても、そこには天孫の南九州大隈隼人への「見限り」が垣間見える。ところが阿多隼人の方は、早くから奈良で天皇の親衛隊となったと描かれる。この落差はどうだ。

神武東征譚自体、その事跡は、続く崇神の三輪王朝からはみじんも同族である痕跡が垣間見えない。むしろ、そのような東への移動は、まさに魏志倭人伝が言う邪馬台国や狗奴国にしか見出せない。
崇神王朝は神武と応神の間に挿入された別の王家の話ではないだろうか?まるで大和の小国家の酋長の話にしか見えない、祭祀のノウハウのような話ばかりである。ところが直後の景行からはがぜん国家統一の戦話が展開し、現実味を帯びてくる。そしてそのあと、4世紀ころに見合う王家として応神が突然登場するのである。崇神の三輪王朝は「いり」の王朝であるが、景行からは「たらし」の王朝だとされる。
「たらし」こそは息長氏の持つ王の名前である。しかし「いり」には「入り婿」程度の意味しかない。
そして現実の歴史にも崇神・垂仁に見合うような人物が中国にも朝鮮にも出ていない。

景行が熊襲にこだわるのは、天孫降臨と根が同じ、正しい言い伝えだったと考えられる。そしてそれらのお話のすべては記紀ではどうにも合点がいかず、どうして応神が出現したかに無理が生じている。しかしこの河内王朝のストーリーは中国の歴史書で倭五王として出てくるうえに、それに見合う巨大古墳が現実に存在する。

筆者はいまだに崇神や景行の古墳が、実際に存在した彼らの墓だとは考えることができない。というのは、倭国造家の墳墓であろう大和古墳群は、山の辺の麓に造られたふたりの古墳より高いところにあるからだ。ふたつの巨大墳墓を見下ろす場所に、海人族の長であるだろう倭氏が古墳を造営しているのである。衾田陵はまずまちがいなく珍、ウズヒコの子孫の墓であろう。

話が大きくそれてしまったが、サルタヒコもまた海導者であることに異論はなかろう。倭氏の祖・ウズヒコもまた海導者であった。天孫降臨、神武東征に関わる在地氏族はすべて海の民である。それほど海人族の伝承は記紀に影響している。列島が海に囲まれた島であることを思えば当然の結果である。その海人族である南九州の民を最初の妻にすると書かれたことは、それだけ彼らの力が強大だったからだ。ところがここでもやはり北部九州の民からは妻が出ていないのである。

北部九州という先進地がなにゆえに重視されないかといえば、南九州と手を結ぶ天孫がまさに北部九州から南下した張本人だったからなのではないか?弥生時代、半島的な支石墓や甕棺が突然消えている。それは氏族の入れ替わりがあったことを教えていないか?

甕棺風習は北部九州の博多から西にしか広がらなかった葬送様式である。東側から豊前・豊後・日向・薩摩・そして球磨地方には甕棺はない。つまり南九州海人族の集団だった熊襲・・・狗奴国にはない風習だったと言える。それがある時期忽然と消え、古墳時代が始まった。あきらかに墳丘を造る氏族が北西部九州に登場したということになりはしないだろうか?それが河内王朝ではないのか?


分析は来年に先送りすることとなる。


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