■ウズヒコ伝承各種
1 『日本書紀』神武東征速吸之門(はやすいのと)

2 同じく神武東征天香山(あめのかぐやま)

3 『古事記』孝元天皇条
   「また木国造の祖、宇豆比古の妹、山下影日売を娶して生める子、建内宿禰(たけしうちのすくね)」
   その男児七人、それぞれ蘇我、平群、木(紀)、葛城らの二十七の臣姓氏族の祖となる。

        ―― 宇豆比古
            山下影日売
               |――――――建内宿禰・・・・・・・・・紀氏・平群・葛城
             木国造 

4 『日本書紀』景行天皇条
   「紀直(きの・あたい)が遠祖菟道彦(うぢひこ)が女・影媛を娶りて、武内宿禰を生ましむ」

     菟道彦――宇豆比古――影媛
                     | 
                     |――――武内宿禰・・・・・・・紀氏・平群氏・葛城襲津彦
                     |  
                     紀直(木国造家)
                               この系譜構造は『紀氏家牒』に同じ)
   妹とむすめの違いはあるが構造はまったく同じ。

■籠神社・国宝海部氏系図「勘注系図」前書き
  
   彦火明命――○――○――宇豆彦命――――・・・倭宿禰命
    
   彦火明命=尾張連始祖。天孫瓊瓊杵命(ににぎ)の子。末裔は摂津住之江の津守連。
     すべて海人族の祖人としている。

■紀氏
         紀直(きの・あたい)紀(木)国造家(名神日前神宮・国懸神社ひのくま・くにかけに奉仕)
  紀氏――                 両者の相違は詳細でない。
         紀臣(きの・おみ)「紀水軍の統率者」朝鮮で軍事面で活躍(『日本書紀』応神・仁徳・雄略条)。

  両者ともに、航海、造船技術者で海人族。(松下煌)
  
■考古学的見解
1和歌山市岩橋千塚(いわせせんづか)古墳の石梁構造は、構造船造営技術に共通(森浩一「岩橋千塚の横穴式石室)
2東殿塚古墳出土埴輪絵の構造船。東殿塚、西殿塚古墳がある大和古墳群は倭国造の墳墓群であろう(松下その他の考古学者も同意)。そして西殿塚古墳が宮内庁では衾田陵 手白香皇女墓と治定しているが、それが反正=珍の古墳ではないかと提言しておく。森浩一は椎根津彦=珍彦が豊後水道から来たと言うが、その大元である海部氏の派生元も南九州にしておきたい。そして播磨灘にも彼らは本拠を持ったはずであろう。
五色塚古墳をそれに比定しておく。



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※※結論・・・宇豆比古、珍彦、椎根津彦、槁根津彦、および武内宿禰の子孫たちはすべてが海人族の系譜に納まる。『先代旧事本紀』が書く、ホアカリ命=ニギハヤヒ同一神およびナガスネヒコ物部氏臣下記事は信憑性なし。物部氏の古墳群は5世紀に大和地域に登場し、紀元前から大和にいたとは考えられない。ナガスネヒコは実際には尾張氏・海部氏らの外戚だったとした方が整合である。

すると尾張氏が大和で物部氏の同族だった話も、実際には5世紀以降のこととなるか。
5世紀ということは倭五王王朝が開始されてまもなくのことであるから、
1 尾張氏・海部氏こそが倭五王=狗奴国王?の正体
2 あるいは倭五王とともに紀氏・葛城氏・倭直氏・物部氏らがやってきて尾張氏・海部氏と同族化した。
のいずれかだろう。

■「ウズ」とは何か?
谷川健一説・・・・伊良部島・宮古島などの南島の人々は海中に住む長い生き物=ウツボ・ウナギ・ウミヘビ・鱧・アナゴなどを「ウヅ」と呼んだ(『古代海人の世界』)。そもそも共通語の「うつぼ」も、語源は「宇津-坊」だと思われ、「うつ」とは「うつろ」つまり中が空虚という意味だろう。しかしながら蛇のとぐろを巻いた形・・・これは山の形で「三輪」とも言うが、その形状を「うずたかい」とも言うわけで、聖なる山そのものも「うづ」である可能性が高い。
太秦の地名も「うずたかく盛り上げた」から来ていると記紀は書く。
その中には珍しいほど高いといった意味合いも含まれるか?
珍彦という表記もそれか。珍には今は珍奇という意味合いが強いが、往古には奇などと同様、聖なる、貴重なという意味が大きかったように考えられる。

■記紀神話「国生み」の島々



国生み神話には多くの島々の創生譚が記述されているが、その中にはほとんど誰も知らないような小島まで出てくる。知価島(ちかのしま)、両児島(ふたごのしま)、女島(めじま)など、一般の現代人でもほとんど知らない島までが書かれていることから、記紀神話が海人族の情報を非常に多く取り入れていることがうかがい知れる。すると『日本書紀』天武天皇十年三月条に、国史編纂の詔があったあと、その編纂スタッフとして阿曇連稲敷(あづみのむらじ・いなしき)の名が出てくる。阿曇氏は海人族の日本海側の雄である。
一方、天武天皇の乳部であろう湯坐として太安万の父である多品治は軍事的な重要人物として登場。
この多氏が果たして故郷南九州の熊襲がいた周辺地域から出てきた海人族の長かどうかは今後の重要なポイントである。南九州の熊本県あさぎり町(旧免田町)にある古墳から金メッキをほどこされた鏡が出ている。
これも考古学的に重要で、そこが熊襲の土器・免田式土器派生地であることも重要。

■倭王珍
この「珍」という中国名が、果たして「珍彦」のものだったかどうか・・・(松下)。
倭王珍が河内王朝の反正天皇(たじひのみづはわけ)だったとすれば、「たじひ」とは「マムシ」であるから、蛇であり、それこそが「ウヅ」であること。
「みづはわけ」の「みつは」とは「罔象」で、水神=竜であること。日本語の「水」を「みず」と読ませるのもここから来た可能性。
『淮南子』に「罔象は水の精、竜は罔象なり」とあることと南九州の隼人が「呉太伯の子孫なり」という伝承を持ち、中国が「倭の水人は呉太伯の子孫」と書いたことなどの一致。
すなわち倭五王のある系統(複数あったはず)に、やがて倭国造となる倭直氏から出る王がいたことが想定できるであろう。

倭五王には、想像するに、尾張氏、葛城氏、海部氏、紀氏、倭直氏などから共立されるべき王概念があって、系譜がいくつかあったことも想定可能である。
従って、倭五王、つまり河内王朝とは多氏・先住海人族阿多隼人海部氏・葛城氏・紀氏・平群氏・珍彦子孫倭直・尾張氏・草部氏・熊野・瀬戸内水軍などの海人族族長連合であり、それが大和で先住海人族や縄文系人種を従えて共立された王権だったと確定してよいだろう。
それが邪馬台国ではなく狗奴国連合であろうと思えるのは、そこに熊襲・隼人のにおいがふんぷんとしているからである。

日本古代の王権が、大きな二つ以上の連合体によって二分され、后を出し合い、連立し、交代しながらやってきたと筆者は強く考える。
たとえば葛城から出てくる蘇我氏の飛鳥政権もまた武内宿禰の系譜なのであり、それがやがて息長氏の子孫である継体から天智・天武・持統天皇へと引き継がれてゆく流れも、そうした交代劇のひとつであり、神功皇后という息長氏を父方に持ち、葛城氏を母方に持つものから河内王朝始祖・応神が生まれたという記述も作為が感じられる。大同団結から河内王朝が生まれたと書くのは、いわば聖徳太子の言ったとされる「和を以って尊しと為す」の意に沿った書き様地王朝でしかなく、とても信じることはできない。あとから書かれた記紀ゆえに、河内王朝の狗奴国派生を消滅させたかった息長氏系の構図がそこにはなかったか?

また秦氏を「はた」と読ませるのも、それが渡来系であると思い込ませるための作為だったかも知れない。
秦氏は通常「しん」と読むべきところ、その「しん」が秦始皇帝=つまり最古の中国の血という伝承を消そうという記紀編集者の意図、恣意が強く働いた可能性はないとは言えまい。
彼らもまた南九州派生だった可能性は今後、追求されるべきテーマとなろう。

参考文献 森浩一編集『古代探求 森浩一70の疑問』中央公論 1998
(昨日の記事も同じ)


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