■日本の古墳は規格化が遅い

「つまりこの時代(古墳)の特徴は、地域ごとに広域に連合というか、ある種のまとまりが形成されているらしいことが分かるのだが、一方でそれらを越えた一つの集団にはなっていなかったことが見えてくるそうだ。」
http://reservata.s61.xrea.com/akitu/4-kohun2.htm

引用記事
■【弥生時代の墳丘墓~古墳出現の過程と展開】概説
「①弥生時代中期
紀元前3~2世紀/大阪府茨城市東奈良遺跡で初期の方形周溝墓が確認されている。その後、紀元前1世紀までの間に中国地方から関東地方に及ぶ各地に造営。地域の首長や家族の墓とされる。
一方、北部九州では吉野ヶ里遺跡の楕円形の大型古墳にみられるような墳丘墓が有名であるが、その数はあまり多くない。形も方形ではない。
福岡県須久岡本遺跡、三雲南小路遺跡などでは一つの甕棺から30面あまりの前漢鏡、青銅製武器やガラスの壁などの豪華な副葬品が出土している。鏡をはじめ多数の副葬品をそえて葬る風習は他地域に先駆けて、まず北九州に成立していた。」

②弥生時代後期中葉
中葉すぎになると、九州を除く西日本各地にさらに大規模な直径40m前後の円丘の相対する方形の突出部が付いたもので、その長さは80mを超える。中心的な埋葬施設は、円形の中央部に掘られた大きな土こう内に板材を組み合わせた簡易な設備であり、副葬品は被災者が身に付けていたと思われる玉類以外には鉄剣一刀という程度のものであった。

③弥生時代後期後葉
西日本各地に相当の規模の首長墓が登場する。
3世紀前半までは明瞭な地域的特性の墳墓が、吉備、山陰などの地域ごとに形成されてくる。しかし3世紀中葉になると、そうした地域的特色の強い墳丘墓に代わり、大規模で画一化した内容をもった墳丘墓が西日本各地に現れる。それらの中で最大のものが箸墓と呼ばれる280mの前方後円墳が登場する。
埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品も大量の鏡と武器や農工具といった呪術的色彩の強いものである。竪穴式石室はこの段階で始めて登場する。
こうした画一的な大型墳丘墓は西は北部九州から東は近畿までの西日本各地に及んでいる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?c=400&i=200&m=195459
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広瀬和雄『前方後円墳の世界』岩波新書 2010 から半島の古墳と日本の古墳の特徴を列挙しておこう。
■倭と半島諸国の古墳の比較
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日本の古墳の特徴
1 形状が一人の被葬者だけを葬る墳墓としては巨大である(墓として以上の氏族全体の祭祀場の意味を持つ)
2 墳長200メートルを越えるものが35基もある(対して百済武寧王陵でさえ直径20メートル)
3 墳形が地域によってばらばらであり、地域の広域同盟はあったが、ある時期まで全国的に統一されない
4 生活圏とかけ離れた海岸部、入り込んだ河辺の津、潟湖に面し、海からも川からもよく見える場所に墓域
5 弥生墳丘墓からすでに地域によって墳墓形態がさまざま存在
6 半島では青銅器時代まで盛んだった多鈕細文鏡の副葬が減少してゆくBC1世紀頃から、北部九州の弥生首長墓に前漢鏡が副葬されだす。

■「仰視型モニュメント」としての日本の古墳
松木武彦によれば、日本の巨大で海岸部に面した大古墳はあきらかに「見られることを意識した」墳墓であるという。広瀬和雄もまた松木の「仰視型」を取り上げて、「見せる」古墳であると断定する。

そして日本の古墳は地域における広域連合の存在は認められるが、それが国家の統一的な墳墓形態として画一化していかない。一見、古墳時代以降、前方後円墳に統一されていったように見えるが、実際には前方後方墳、円墳、双方墳、方墳など相変わらずばらばらであったうえに、竪穴式・横穴式というような石室、石棺など埋葬形態もばらばら。さらに統一王朝である大和王権確立された8世紀以降でさえ、八角墳、上円下方墳などなどあいも変わらず被葬者の系列によってまちまちである。

このような倭国の墳墓形態のばらつきは、日本が当初から強力なひとつの王権によって有無を言わせず統一されたものではなく、地域連合体の寄り合い所帯だったことを思わせる。そしてその寄り合いも、実にさまざまの人員構成であり、渡来、先住が幾種類もやってきて住み分けたことが想像できる。世界史では倭国のこのような国家形態を「統一国家」とは呼ぶことはない。

古墳ばかりか副葬品も地域によってまちまちである。唯一統一感のあったのが銅鏡なのであるが、それも九州では後漢鏡が弥生時代から重視されたのに対して、畿内では歴史が浅いからまず弥生時代のプレ墳墓というものがないうえに、鏡はほとんどがぼう製鏡(コピー)で占められる。

※日本最大の漢鏡出土墳墓は、弥生・古墳時代を通じて奴国があった平原遺跡の1号墳である。その数は奈良の黒塚古墳を上回り、方格規矩四神鏡32面、内向花文鏡7面、き竜文鏡1面の全40面のほかに太刀、ヤリガンナ、鉄鏃、鉄製工具、メノウクガ玉、ノミ、ガラス製連玉、ガラス製小玉などなどあふれんばかり。それ以上に驚愕的だったのが直径46.5センチ超大型ぼう製内向花文鏡だった。今のところ平原1号墳を追い抜く副葬品を持った墳丘墓・古墳は日本にひとつとしてない。また奈良県の馬見古墳群島の山古墳では腕輪型石製品が133個も石室内に貼り付けてあった。これも日本最大の出土数である。

■水辺に造られた見せる古墳の代表
大阪府大仙古墳
兵庫県五色塚古墳
大阪府西陵(さいりょう)古墳
大阪府宇度墓古墳
京都府網野銚子山古墳
福岡県苅田町石塚山古墳・御所山古墳・行橋市石並古墳
大分県杵築市小熊山(おぐまやま)古墳・御搭山(おとうやま)古墳・大臣塚古墳・亀塚・築山古墳
千葉県富津市弁天山古墳・内裏塚古墳群
神奈川県逗子市長柄・桜山古墳
枚挙にいとまなし
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※見せる古墳とはなにか?
葬列者に氏族の権威と力量を見せつけ、首長が死んだあとも変わらず氏族は強大であることを敵味方に知らしめることを目的とした古墳である(Kawakatu)

例えば、日本海側には1世紀弥生後期の頃から四隅突出型墳墓が造営され、やがてそれが丹後にも拡大、その後高句麗様式の方墳が出現してゆくが、四隅突出型から方墳への変遷の影には、丹後・若狭地区に入った海部・尾張氏勢力の影響が十分に見出せる。そもそも出雲は半島北部の高句麗と深く付き合い、また高句麗の氏族が移住していたと考えられるが、高句麗が半島で南下策をとるようになると、南の新羅や百済をけん制する意味で日本海諸国との深い連携が必要化し、海人族をたばねていた尾張氏との交流が深まったと考えてもいいだろう。するとその高句麗型方墳は尾張氏の本拠地である東海地方へ伝播。これがやがて尾張氏・海部氏の北上拡大に伴いながら前方後方墳へと変遷し、関東地方奥地にまで拡大する。その後、政情が安定すると、今度は畿内型前方後円墳が東海・関東に出現。これは尾張氏が畿内勢力からの懐柔策で協力関係となり、后を出すようになったからだろう。従って尾張氏・海部氏の連合はもともと大和の中心勢力となった人々とは別の連合だった可能性が考えられよう。それを証明するのが、前方後円墳の早期造営がまず纒向、大和に開始されると、次に海部氏が国造をつとめていた宇佐の4世紀の赤塚古墳を含む川部高森古墳群として出現、また同じく4世紀、関東地方には那須古墳群が登場した。九州と関東の二ヶ所だけが前方後円墳造営開始直後の4世紀に同じ形式を許された。いずれも海部氏、尾張氏の古くから管理して来た土地である。その後、青龍鏡を出した方墳があった丹後がその中心地となり、ついに東海地方に広がる。言い換えればこれが海部氏と尾張氏の本拠地移動の歴史をそのまま語っていると言えよう。
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そしてそうした歴史はすでに弥生時代から続く伝統でもあった。
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画像は『弥生王墓誕生 出雲に王が誕生したとき』島根県立出雲歴史博物館 2007から

■弥生墳丘墓の時代的、地域的変遷
北部九州に支石墓出現
北西部九州に甕棺墓
出雲・伯耆・丹後に四隅突出型(方形)墳丘墓
吉野ヶ里に巨大墳丘を持つ墳墓
吉備に盾築墳丘墓・特殊器台、埴輪。および直弧文
中部地方に方形周溝墓→前方後方墳型周溝墓へ発展
甲信越に方形周溝墓

※このプレ古墳の様式を日本列島の南北において見ると、その時代変遷や氏族が見えてくるのである。
つまり弥生時代にいちはやく墳丘墓を持った北部九州はあきらかに支石墓と甕棺という半島南部加耶系の墳墓を持つのだから九州北部の倭人は加耶と極めて同族に近いか、半島倭人そのものが来ている。出雲の四隅突出型墳丘墓は他に例を見ないものだが、その後の方墳への移行は高句麗系と見える。信州松本盆地の積み石塚や合掌式も半島とつながりのあった倭人・・・安曇か?こうして見ると前方後円墳、円墳の流れは最後の最後にやってきた。それは大和と九州がほぼ同時に、別のルートで来たと見る。

その大元は百済や新羅が南下して伽倻が滅びるとほとんど同時に起きている。
つまり3世紀後半のできごとなのである。

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