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■十六菊花紋
「菊は、奈良時代末期に、唐代の中国から日本に、当初は薬草として渡来し、後に観賞用になったと考えられている。文学上は、古今和歌集、源氏物語などから登場する。平安時代には、陰暦9月を菊月と呼び、9月9日を「重陽の節句」「菊の節句」とし、菊花酒を飲む「菊花の宴」「菊花の杯」で邪気を払い、長命を祈った。菊文様も、吉祥文様として、好んで装束に用いられた。

鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用した。その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が天皇・皇室の「紋」として定着した(「十六弁菊は南朝の紋で、三十二弁菊(十六弁八重菊)は北朝(および現皇室)の紋である」との説明も見かけるが根拠不明である)。

江戸時代には幕府により葵紋とは対照的に使用は自由にされ一般庶民にも浸透し、この紋の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具が作られるなど各地に広まった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E7%B4%8B%E7%AB%A0

Wikiの「菊花紋章」の解説を読めば一目瞭然だが、天皇家が十六菊花を家紋にし始めたのは鎌倉時代の後鳥羽上皇が嚆矢である。つまり天皇家の歴史の中で、菊花紋はさほど歴史が長くない。

と、いきなり書くと、菊花紋=ユダヤやイラクと天皇家の関係か!?・・・などと期待した人はがっかりするだろう。
「謎」と書いたくせになんだ、じゃあ謎なんかないじゃないか、と思うだろう。まあ、あわてないで。
悪いけれど日本とユダヤを無理やり興味本位につなごうなどという、関なにがしかのごとき軽佻浮薄な覗き見趣味は筆者にはまったく皆無である。菊花紋の謎はそんな非学術的な興味本位なものの外に存在する。筆者の推理推測はもっと格調高い、アカデミックな推理である。

16菊花紋は明治二年になって政府が厳しく使用を制限し始める。これは親王クラスでさえそうだった。それまではただ漠然と使用され、平民の商家から武家にも自由だった。つまり菊花紋が特に天皇だけの紋章として認知されていなかったのを、明治政府が明確にした。ご存知のように明治政府とは諸氏大好きな尊皇攘夷派によって作られたから、天皇制を世界に冠たる唯一のイデオロギーとして「錦の御旗」に仕立て上げていくわけである。

だからその後の日本人は菊花紋といえば天皇が太古から使っていたと勘違いしているわけである。
ところがその実態は鎌倉時代にたまたまある上皇の好みから始まっているわけである。明治時代以前では、菊花紋がクローズアップされたのは南北朝の争乱のさい、楠正成らが権威的に扱ったくらいである。→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/46861179.html

「なあんだ、ますます謎なんかないじゃん・・・」

ところが天皇家がこれを用いる、はるか以前に古墳に菊花紋が刻まれていた・・・!としたらいかがだろう?

随分前にここに記事にしている。→http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/42306126.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/42307360.html
いずれも熊本県南部の古墳の5世紀!の菊花紋である。つまり日本最古の菊花紋だ。
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ひとつは宇土地方の石棺。あとのふたつは人吉地方の横穴墓の「まよけ」として。
どれもあとから彫られたものでないことは明白である。
これらは5世紀に使われていた!

この謎を解くためにはなんともはるかな話だが、さらに数十世紀遡った中国雲南省まで行ってくる必要がある。
つまり黄河文明以前の世界で、これとまったく同じ「車輪状紋」が存在した。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51421380.html
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この謎は考古学的発見を民族学がつないでしまう、つまり海を移動した人々が大陸と列島をデザインでつなぐという壮大な謎なのである。
中国4000年前以前、今の四川省から長江河口部にかけて存在した長江文明(巴蜀文化)は実に7000年前というから黄河文明よりも3000年も前に稲作を発明し、巴蜀文字と呼ばれる象形文字を使って繁栄していた。その象形文字の中に菊花紋?がすであった。もちろんそれは菊花ではなく車輪のような模様だが、この車輪紋は長い間使用され、黄河文明が気候変動で南下してくると、これをもった人々は長江河口域から脱出、流懺されてゆく・・・。彼らは東西南北に離散し、ある特定のDNAハプロタイプとともに華北、朝鮮半島、チベット、そして日本列島南部へ逃げてゆくのである。そのハプロタイプとは日本人とチベット人がともに形を変えて持っているY染色体Dである!

Y染色体は父方が持つ。そして一般的に混血するとすぐに消えて行く。そこが母方とは違うはかないところ。ところが混血がない限り消えないし、また潜伏して先祖がえりすることもある。そして母方遺伝子が古代にはほとんど海を渡れないのに対し、Y染色体は男性因子ゆえに自由自在に海も渡れたという強みを持つ。

長江文明人は男女ともに脱出しただろう。チベットは特殊な例で混血せずに陸封されたわけだが、陸上を移動した場合、どうしても混血していく運命にある。ところが日本人の場合、その双方の渡来が考えられるのだ。半島から混血を終えてやってきた場合、おそらくY染色体Dは減少しているはずである。ところがなぜかこのD遺伝子が日本人の中にちゃんと存在する。それがチベットとは違うDである。どういうこっちゃ?

海を渡れば九州。
いかがでしょう?謎でしょう?
この問題は文科系の筆者の手に余る命題なので、どなたか追及して、逆にわたしに教えてください。
そして熊本の菊花紋が本当は車輪だったのか、それともヨーロッパ的なロータス紋なのかも。
さらに、宮内省はなぜ晩免(ばんめん)古墳を突然陵墓参考地に指定し、大急ぎで埋め戻し、さらに安徳天皇の墓だなどというありえない地元の噂話を放置してしまったのか?それはまさに明治政府の陵墓隠しではないか?

菊花紋が熊本県から出たのなら、それこそ神武が九州から来たことの証拠品になったはずなのに、なぜ隠匿するのか?さっぱりわからない。
もっとも神武東征譚などは「多氏古事記」にあった九州多氏起源伝承だろうがね。

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