■出雲の横口式石室
出雲の横穴群集墓群は豊前の竹並横穴墓群や上の原横穴墓群の流れの上にあって、規模はこれらに匹敵する数量を持つ。(門脇)

次に横口石室であるが、中期以前の竪穴式から横口式石室への移行はこれまた全国的に九州北部を皮切りに東国・東北まで一気に進む。ところが最も遅れたのは古墳先進地のはずの畿内である。これは九州式石室が容易に畿内には入らず、畿内はこれを半島から直接入れた土木・古墳工人から取り込んだと考えられる。また一説では畿内の横口、横穴式の多くは渡来系工人管理者か、北部九州から来た官吏ではないかとする意見もある。
もちろんそうとばかりは言えないが、横口式、横穴式石室は畿内よりも周辺地域の方が敏感に取り入れた。
古墳初期の様式は竪穴式で、これは墳頂部に造るためより古墳を山と見立て、天に近づくための石室だという解釈と、経済的にも、労働量にしても相当大変だったはずである。しかし横口式は低い場所、横穴式なら地上に先に重い石材を並べ、そのうえから土をかぶせればよいから随分経済的だし、けがもすくなく、時間が短縮できる。ようするに経済性もさることながら古墳というオベリスク建設に駆り出される農民の田植えや刈り取りに制約された時間枠を充分考慮した工法だと言えるだろう。そいう意味で地方がよりはやくこの技法を取り込んだのは納得できる。つまり畿内には充分な人口と渡来集団がいたこと、さらに金銭よりも諸外国への権威づけに敏感で、政治的であり、農業の時間枠には無頓着なことが見える。竪穴式の意味合いを権威、すなわち地位の高さに求めれば、中央集権的になったのは当然。これを見ても流れは古墳時代からすでに畿内中心へと移動していくことは見て取れる。古墳の規模で人は権威の大きさを測るが、こうしたすべての面から、権威は九州から畿内へ動いていった。それが4~5世紀の流れだったことは一目瞭然である。

■出雲の横穴墓
出雲の横穴墓の多くが「四柱式妻入あるいは平入り横口式石室」を持つ。
石室内部は三角あるいは台形ドーム、または屋根型の石室を持つ。また羨道の開口部(入り口)の装飾や切り込みは単純で、同じ群衆墳でも九州のものよりはかなり簡便なつくりとなっている。
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面白いことだが同じ日本海沿岸の石見地方や伯耆地方には類似する横穴墓、古墳が少ない。出雲東部の松江周辺を中心にして西は出雲郡、東は今は鳥取県になっている境港(ゲゲゲの水木さん誕生地)あたりに集中する。つまり出雲の築木あたりから意宇、安来あたりが中心になる。この地域に九州的な横穴墓や横口式石棺が集中するということは、彼らがやはり白水郎だった証明になろうか。



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               上塩冶横穴群集墓群
門脇俊彦『山陰地方における古墳群と地域社会』島根県古代文化センター 2002より


意宇、安来周辺を九州の多氏氏と大和の多氏の派生元と考える説も生まれるのかもしれない。多氏という鉱物祭祀集団は大生とも書くが最古の渡来集団のようで、唯一神武天皇直系を名乗った。天武時代にも真人の筆頭である。太安万侶を産む集団。ところがまったく氏族記録が残っていない。

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出雲といえばまず四隅突出型墳墓や荒神谷などが取り上げられようが、実はこのように各地の民族が混入しており、それは風土記や記紀にあるようないくどかの他民族からの簒奪を裏付ける。また越地域や秋田あたりの東北との交流、安曇族による信濃との交流、筑紫、隼人、久米、住吉族らとの交流、大和の干渉などがあって、さらには神話にあるような出雲を形成する神々・・・大国主の子どもたちと言われた事代主や鴨神アジスキタカヒコネ、葛城・鴨氏などの同族化があったことも推測される。古墳の様式、石棺の様式、あるいは記録のアメノホヒに象徴される中央祭祀の押し付けなど、日本海側は非常な混成文化が入る。しかしながら言葉は蝦夷的であり、基盤には蝦夷、隼人といった縄文系文化が深く存在し続けてきた場所なのだろう。

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となりの出石にはアメノヒボコという渡来があってそこから息長一族が生まれ出た。また丹後や若狭や気比には尾張氏・海部氏の管理体制があった。山を越えた山陽方面には吉備王家が控え、土師氏たちも吉備経由、丹後経由で紀伊、河内、山城などへ拡散したのだろう。海を見れば国境のない時代、日本海は半島の高句麗や新羅や百済にも直結している。言わばまさに四面楚歌の孤独な場所でもある。逆に言えばありとあらゆる文化を享受できもしたであろう。出雲は広い。伯耆、出石、丹後、若狭、気比、高志、奥羽まで含めて往古の出雲は考えねばなるまい。歴史の波に翻弄された出雲。その原点は鉱物と中継港であろう。それゆえにこそ、出雲大社があり、それゆえにこそ国譲りが書かれ、そしてそれゆえにこそ大国主=大物主とされたに違いない。

オホナムチは大和に妻問いの旅をしている。
そして妃としてはスサノオの娘、因幡の娘、越のヌナ川姫、また宗像の娘をそれぞれ娶り、多くのウカラ(同族)を生み、すくなひこなとともに国土を開発し、大物主を迎え入れ、死して大和の三諸の山=三輪山に祭られる。最後に奪った大和は最後まで大国主と大物主を畏れ、結局伊勢た大和の社に鎮魂した。出雲大社だけでは尾さえ切れない大和の残照でさえ大和はあとかたもなく流懺した。祟り神としてそこまでされたのは大国主だけだろう。つまりそれだけ出雲は重要だったということ。

出雲と九州北部と蝦夷をつなぐものそれが横穴群集墓である。
これは考古学上のアラハバキである。

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