■出雲の横口式家型石棺(石槨ではない)

●家型石棺とは・・・古墳時代後期に現れる石棺様式で、家族を意識し、家型に造られた石棺。蓋と身に別れ、場合によっては複数の石材切り石によって組み合わせた組み合わせ式のものもある(横穴墳に多い)。蓋は家の屋根のように△、あるいは台形を成し、身は上部が開口した箱型。素材は全国的に加工がしやすい溶結凝灰岩が多い。

●出雲地方に見られる特殊な家型横口式石棺
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 上塩冶(かみえんや)築山古墳(終末期円墳)の横口式家型石棺(奥・小型妻入り、手前大型平入り)
画像の出典→http://blogs.yahoo.co.jp/takabou1331/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=3

■舟形開口部という九州的、海人的要素
開口部には九州式横穴墓によく見られる舟形、波型の石衝(せきしょう=衝立、仕切り板)に似た形状を持ち、真ん中に切れ込みが入る。石棺全体を舟に見立て、切れ込みは櫂を差し込むための「櫂受け」にあたる。こうした形状は死者の復活を意図した様式で、極めて九州的である。中国の神仙思想を背景にし、死者のヨミガエリ思想が古墳に反映されており、畿内式密閉型石棺には見られない観念があったと思われる。ちなみに死者のヨミガエリ思想のある古墳には、概して魔よけ的な絵画や陽刻・陰刻が付随することが多い。死者が復活するならば、肉体が朽ち果てては戻ることができないからだ。つまりそうした地域の人々は死者の魂魄のうち魂は召されても、ハクは居残り肉体の周辺にただよい、遺骸を守っているという観念があったことになり、これは極めて中国南朝的な神秘主義に近い。そして遺体が朽ち果ててゆくのは悪霊のせいであるとして、肉体を守るために魔よけを置くのである。これが装飾古墳の持つ大きな葬送観念なのである。そうした意味では大和の古墳にそれらを持つ高松塚やキトラとは観念に隔たりはない。ただし石屋形や屍床や石衝といった解放的な様式にあったヨミガエリ、死者回帰願望は、畿内式密閉型石棺では望めないとも見え、密閉した石棺はむしろ死者の永遠の不回帰を望む様式とも見られる。それは時代的、あるいは授受した渡来思想の相違、変化があり、畿内と九州では埋葬観念が最初から違っていたことを示唆することとなる。
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       上塩冶築山古墳石室見取り模型


■横口式石槨からの分離型か?
「百済系渡来人の多い大阪府の河内南部、旧安宿郡内にあること、百済末期の古墳のなかに石槨様の玄室の前面に玄門を設け、羨道をつけた石室がみられることなどから、百済古墳の影響を受けて成立したものとの考えが有力」「一方では高句麗古墳にも同様の形態を持つ古墳も確認されて」おり、朝鮮半島の墓制の影響下で成立したにせよ、その起源については未だ明らかではない」
しかしながらこれは九州の石屋形の変形とも見られる。
石槨とは石室そのものが石棺をかねる様式で、埋め込まれ、入り口からすぐに屍床になったもの。金庫を埋めたような形である。
奈良県香芝市の平野塚穴山古墳
岡山県・広島県瀬戸内海沿岸地方・鳥取県や島根県の山陰地方・大分県でも稀に存在
広島県東部備後地方の福山市猪の子1号墳・曽根田白塚古墳・芦品郡新市町尾市古墳
関東地方千葉県富津市割見塚古墳・森山塚古墳で
大阪府富田林市 お亀石古墳などがある

横口式石槨はみな群衆墳で、出雲のような円墳内の独立した石棺ではない。


■石棺・石屋形・横口式石槨などの畿内・九州折衷案ではないか?
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九州式石屋形(上熊本県チブサン古墳)と同じく横口式横穴の屍床(熊本県穴観音?横穴)


島根県島木横穴墓の石屋形
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上塩冶築山円墳の横口式石棺開口部

出雲の横口式家型石棺は大別して九州式と畿内式に分類されるが、特殊な形状のものもある。
画像を比較すれば一目瞭然、九州式の石屋形や舟形屍床の様式に非常に類似している。
どうみても九州人か、九州に行って見てきて作られた石棺だと言えるだろう。
終末期古墳ゆえに中期後期の九州式の発展型に見える。おそらく九州系海人族の墓であると、九州の研究者なら当然そう思うに違いない。
ところが家型石棺自体は大和、畿内式だとされている・・・・。謎の石棺である。


■分布としては
島根県出雲市上塩冶今市大念寺山古墳・上塩冶築山古墳・西谷古墳群(平入り)
出雲市上塩冶妙蓮寺古墳(平入り)
出雲市上塩冶寶塚古墳(平入り)
出雲市上塩冶地蔵山古墳(平入り)
静岡県白石石棺(妻入り)
熊本県江田船山古墳(妻入り)
大阪府. 井塚出土横口式石棺(叡福寺境内)(不明)
などである。
そのほとんどが出雲市上塩冶に集中する(横穴墓の場合は安来などにも)。ほかは妻入りゆえに様式が異なるという、実に希少な例証である。

■九州式と畿内式の折衷?
九州式と畿内式にはかなり相違が見られ、小林行雄は石棺様式は全国一律ではなかったと結論づけている。典型的畿内優先論者である小林としてはおそらく予想外の結論であろう。

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●考古学・古墳予備知識
考古学研究の傾向には畿内すなわち中央からの様式許可で古墳が造られたという古い、恣意的な、畿内中心主義があって、地方の研究者も、これに準拠する傾向が強かった。今はそれほどでもないが、古い資料の多くはほとんどがこれで分析しているため、独自性を見出す論理が少ない。
石棺の前身として九州北部に多い石屋形があるが、この九州式プレ石棺を参考に類似を見てゆく傾向が地域の考古学研究者に乏しい。考古学者には、全国的な視野で比較論を展開する視野の広い学者、地域に準拠し畿内型との類似を比較する学者、同じく地域に準拠し、他の同県内遺物と細かく比較する分科研究者があるのは摂関に限らず石室、墳形、遺物、遺跡のすべてにあるので注意が必要である。また古墳研究者には石室を重視しない傾向もあり、さらには石材の出処や成分に無頓着なものも多い。特に各県資料にこの傾向が強い。
つまり石室、墳形、遺物、石室にはそれぞれの専門化が見られ、これは科学としての考古学の宿命でもある。それらの資料を広い視野でどうつなぐか、比較するかという料理方法によって考古学の見解は大きく変容する宿命にある。そういうことを充分に熟知した上で家型石棺についてもよい研究者の書物を読み比べて選択する必要が好事家にはあるだろう。

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横口式家型石棺とは、出雲地方に特化した、家型石棺の地域的な特殊型とも言えるが、その形状から見て九州式開放的石屋形と畿内式密閉的石棺の折衷型と考えられ、それがある古墳、横穴墓(おうけつぼ)周辺地域の住民が、双方の文化の影響下にあったことを示す遺物だと言える。

様式は、簡単に言えば、畿内式家型石棺の平入り部(横側)に開口部がある石棺のこと。→平入り、妻入り
●予備知識・・・(妻入りの妻とは夫の配偶者がそこにいた、つまり台所がはじっこにあることから出た表現で、刺身のツマなども同じ意味を持つ。妻=端=家のつまと覚えるのが楽。切妻造りとはこのツマ部分が切り取られたような造りのことで、いわゆる古くからの私たちの一般家庭の様式。平入りは屋根の軒に対して平行な面である。)

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分布地域として出雲地方、常陸、福島などの東北地方が上げられる。茨城県と福島県などの多くは群衆墳としての横穴墓がほとんどであるが、九州に隣接した日本海沿岸ではかなりな規模の後期円墳と横穴群集墓双方に見られることから、より九州に近いものになっている。ただし装飾や石人・石馬の同伴はそれほど見られないようであるから、北部九州人の墳墓とは確定できず、むしろ北部九州に縁の深い在地倭人か、または北部九州を経由してきた南九州人、あるいは玄界灘沿岸の安曇、久米、住吉などの海人族であった可能性が高いだろう。

出雲の横口式石棺を持つ遺跡には塩冶(えんや)遺跡などの縄文時代から古墳時代の長い居住地遺跡や古墳、横穴墓が多く、この「塩冶」地名は藻塩生産に関わった地名という民俗学からの見地から、彼らが製塩をこととする海人族=白水郎(あま)であった可能性がほのかに垣間見える。

出雲には隼人、白水郎のいた記録が、遅い時期ではあるが多々ある。また宍道湖が縄文海進で東西が開口した遂道(スソン遂道)だったことから良港であり、また日本海には潟湖交易のための港が多かった次期があり、縄文時代から半島との交流があったことは考古学的にもあきらかである。

すなわち少なくとも弥生時代以前から出雲、日本海側や玄界灘沿岸には半島系倭と日本列島系倭人のつきあい、往来があったというのはh間違いない。また南方の隼人や久米もすでに秋田城、南北海道あたりまで南島にしかないゴホウラ貝やイモ貝を運んでおり、出雲はその中継港として、越の富山湾、新潟の潟湖、秋田の八郎潟などとともに先史時代からの大切な地位にあったことだろう。

次回出雲の群集横穴墓


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