『日本書紀』虚像としての任那日本府 中央集権への道3 元興寺と王興寺まで
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49684415.html
すでに昨年ここに啓上した上の記事をまず再確認しておきたい。

538年に同じ百済の聖明王が倭国蘇我王朝に贈ったのは経典と仏像だけであったと『日本書紀』は書いている。ところがこの頃、半島も中国も群雄割拠の時代でまずもってそれどころではない。倭国では百済武寧王と親しかった継体が死去し、続いて立った安閑・宣化の兄弟大王が立て続けに死去するという奇妙な記述が百済の史書に書かれた(書かれたのはずっとあとのことだが)。そして出てくるのが継体の異母子であるアメクニオシヒラキ、つまり藤原氏が「新」国家開闢の皇祖とした欽明大王である。

その後、蘇我氏の実質的な祖である蘇我稲目がにわかに登場し、政治の中心に定着。敏達、用明という蘇我系大王の時代が馬子によって確定してゆく。この王朝の実質の大王は『隋書』から考えて母方蘇我王家のものである。これには異存はないはずである。しかし蘇我王家が隋に送った国書は随分乱暴で、当時の国際情勢への気配りが皆無だったために、結局中国との直接外交は樹立されなかった。そのあとも天智・鎌足の政権まで、中国と倭国の交渉は空白期間になる。ということはこの間の倭国の仏教は中国から直接習ったものではないことになる。それは百済から間接的に貰い受けたものだということは誰でも知っている。

では、百済から寺院、僧侶、仏舎利などの経典以外のノウハウが揃ったのはいつか?ということになる。
538年の聖明王からの贈呈は『日本書紀』飛鳥時代の記録がウソばかりなので、まず信用できない。確実なのは588年、百済昌王が贈った法隆寺(飛鳥寺・元興寺・法興寺)のための僧侶・仏舎利容器などが蘇我王家へ贈呈され、百済の王興寺と同じ伽藍配置の、日本最初の国家寺院である法隆寺の五重塔が完成したのが592年である。蘇我馬子大臣の時代。これこそが正しい仏教伝来だったと言えるだろう。

ちなみにこの頃まで、倭国の政権で中国とちゃんと外交できたのは、今のところ記録上わかっているのは筑紫の奴国と女王国と倭五王だけである。また仏教寺院としても、筑紫の法興、のちの観世音寺の方が畿内よりも早かった可能性が非常に高いと言われている。つまり『日本書紀』だけが唐突に書いている「法興」年号も、法興寺という寺名も、筑紫王権から拝借して畿内が早いという証拠にしてしまった可能性が問われることになる。また消失した法隆寺再建にあたって、この筑紫にあった法興寺伽藍を強制的に奈良に移築したという意見もある。もっと言うならば法隆寺伽藍のほとんどは最初から筑紫法興寺のもので、五重塔だけが百済来たオリジナルだと考えてみる手もあるだろう。

そもそも筑紫の外交はすべて畿内に先んじて行われてきたわけであるから、継体時代に筑紫国造家がやられていなければ当然、中国にとって認知度が高かったのは筑紫政権の旧倭国の方であろう。その考えるのが歴史の流れである。蘇我馬子”大王”がそうした倭国の長い歴史をちゃんと踏まえていたならば、随へ国書は違う書き方になっていなければならない。

少なくとも河内王朝まではそういう国際感覚で中国とつきあっていたのに、継体大王からは(つまり飛鳥王権からは)まるで中国を未知の国家だったように『日本書紀』は書いているのである。言いかえるならば奈良の勢力が古くから中国とつきあっていた証拠は、3世紀の邪馬台国が纒向にあったと完璧に証明するしか手立てがないことになるわけである。

日本の歴史学者たちはその根拠を前方後円墳と三角縁神獣鏡だけを頼りに勝手に確定させてしまって悦に入っているというのが実情である。ところがその後大古墳群は河内に移ってしまい、そちらのほうが随分大きく立派なものになっている。しかも大和に都を持ったはずの倭王武=雄略の古墳は竹内街道の峠の東側にはなく、西側にあってどう見ても倭王の本貫は河内だったとしか見えない。おまけに奈良からは中国から直接貰い受けたような後漢鏡もほとんど出ず、軍事力の証明となる実用鉄器が出てこない。空白の祭祀遺構しかなかった場所に、いきなり古墳時代後期からそれらがぼつぼつと出てくるだけ。そのような寧楽が、やはり突然中央集権国家になろうはずはないではないか?

だからこそ飛鳥時代後半になって、隋が半島に攻め込むようになり、高句麗が南下してきて半島南部諸国が圧迫されるという事実がなければ、半島諸国が「わらをもつかむ」願いで倭国に援助を求めてこなければ、またそのためには倭国の国力を底上げするために技術を提供してやらねば、畿内新倭国の脅威は増幅しないではないか?

この頃まで、奈良の政権は東アジアではほとんど未知のもので、不気味な蓬莱の呪術のクニでしかなかったはずである。つきあいがないクニのことなど知名度は当然筑紫や河内より低かったはずだ。少なくとも畿内でも、古くから河内に根拠地を置いていた物部氏、あるいは紀ノ川の紀氏、その奥の葛城氏、熊野の海人族やそれを牛耳っていた尾張氏らの方が蘇我氏や継体や欽明たちよりも知名度があったはずであろう?

これら新旧氏族が奈良という奥地に共立国家を作ろうとしたのが大和。だから大和政権の誕生はかつての代代「王」たちを排出した氏族の、東アジア諸国の侵犯に対抗するために考え出された究極の山城(やまじろ)共和連合でしかない。盆地のうちに籠もっているくせに、言うことはでかい。それは半島諸国が飛鳥時代後半に畿内倭国を援助したという虎の威を借りたものだった。

倭国と書いてしまったが、そのとき、果たして飛鳥政権が「倭国」と認識されていたのかどうかも、実は怪しい。『日本書紀』は飛鳥王家は聖徳太子が初めて中国に国書を送ったと書いているではないか?それが東アジアにおける飛鳥デビューだったわけである。当然、その当時の東アジアにおける「倭国」はまだ河内王権だったはずである。はっきり申して倭五王、倭王と中国が正式に呼んだのは河内王朝までであって、継体以後、摂津王家も飛鳥王家もまだ倭国でも、日本でもない「倭人の国のひとつ」なのが事実だ。

そこで倭国でもないこの奈良王権を、天武がようやく「日本」と新しい呼称で呼ぶこととし、藤原不比等がそれを半島に広告したわけである。その意味は従来の倭国ではありません。であった。

そもそも倭人とはなにか?
それは弥生時代に外からやってきた「弥生人」か?
それとも縄文時代からここにいた倭人=国境なき海人族のことか?
倭人が倭国を作ったのか?それとも海外から来た弥生人が作ったのか?
そういうところから考えてゆけば、畿内の為政者は明らかに弥生人の末裔だったと言える。当初から日本は倭人=小さな人々=海人族の作った国家ではないことにならないか?だったら倭国ではないだろう。東アジア諸国は、弥生人が自分たちと同じ民族だったなどということは知らなかっただけなのではあるまいか?そこから始めなければならない。



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