わたしたちは仏教伝来は『日本書紀』記述ではなく『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起』の記述から「聖徳太子ごさんぱい」つまり538年と習った。父たちは552年という『日本書紀』の記述をそのまま習った。

仏教伝来とひとことで言う場合、それは国家として正式に仏教を求めて伝授されたという意味で使う。例えば渡来文化が早くから入っていた筑紫などでは、仏教の概要、様式などはもっと早くから入っていてもおかしくない。

そもそも宗教には祭祀様式と教義という二つのものがセットになっている。どちらかだけ取り込んでもそれは伝来にはならぬ。様式とは仏教祭祀には何が必要で、何を用意しているか、つまりノウハウであり、それは寺を建て、僧侶を育て、細かな道具などが必要になる。国家が行う限りこうした形骸的ではあるがぞろぞろとした道具立てがこなければならなくなる。それが個人で取り込むならば経典と数珠さえあれば話は簡単である。あとは経典に書かれている教義理念を自分で勉強すればよい。実際、宗教のそうしたごてごてした粉飾部分を人は大事だと思うものだが、こと信仰として考えれば、そういう余分な飾り立ては必要ない。ただ仏の言うことを信じられればよいわけである。しかし宗教となると話が変わってくる。信仰と宗教はそこが違う。信仰をベースにさまざまの要素がオブラートされる。

寺を建てたからと言ってそれだけでは導入はならない、むしろ建造物などは宗教の容器に過ぎず、念ずるのは一遍や日蓮たちのように往来で充分事足りる。しかし仏教伝来と国家レベルで言う場合、そこにはさまざまのお飾りがついていることになる。

大和政権というのは藤原不比等の時代くらいまでは、はっきり言って日本列島全土を支配できるようなものではない。それは実は今もあまり変わっていない。天皇は畿内の氏族によって共立されただけであり、はっきり申すがそんなものは誰でもよかった。そして畿内で完成した律令が全国に通用するためには、地方を威圧するだけの説得力ある権威と具体的な軍事力がなければならない。ところが大和政権には自前の力がない。あくまで寄り合い所帯の連合体で、地方にはそれに匹敵するくらいの力を持った先進地は、この段階ではまだまだ存在していた。つまり近畿の学者が大和ヤマトといくら言っても、まだまだ四畳半国家でしかないのだ。それが中央集権国家と諸外国が考えてくれるようになった契機は、どうしても唐、高句麗戦争の時代以降である。

百済・新羅・加耶・高句麗が日本へ軍事応援を頼むようになり、そのために見返りとして多くの渡来技術や技術者、仏教建造物、そのノウハウ、僧侶を送り込むようになって始めて仏教も畿内に伝来したと言えるわけである。そう考えるのが当然ではなかろうか?

しかるに538年ではまずもって無理である。
当時の半島情勢は、むしろ百済は倭国を敵視しており、仏教が正式に百済からもってこられるはずはないのである(大山)。だから蘇我・物部戦争が崇仏戦争だったという『日本書紀』の主張はまったくのでたらめである。実際、物部守屋のいた河内には渋川寺という建造物がすでに建っていた。もちろんこの当時、「寺」と書いてあるからといえども寺院とは限らないが。寺には集会所のような大きな意味があって、官庁なども寺と言ったから、渋川寺も合議のための集会建造物だったかも知れぬ。ただ、物部氏のような先進氏族がすでに仏教を知っていてもなんら不思議はないわけである。

『日本書紀』の552年というのはあきらかに中国の末法思想が好む数字を選んだ年である。『日本書紀』は道教による年号や中国の末法思想によって事件の年次を決めてある。だから実際の年月日は実はよくわからないのである。

百済と大和政権が手を結ぶのは明らかに昌王の580~600年代である。
例の元興寺=法隆寺五重塔の下から、百済の王の銘文つきの法器が出ていることで有名な時代。このときこそが仏教伝来の正しい年代なのである。

『法王帝説』も『元興寺伽藍縁起』も成立は平安時代だと考えられ、当然、『日本書紀』の記述に影響されていることは否めない。言いたくないが偽書に等しい。

所要ができたのでつづきは後日