ここ10数年間で、歴史愛好家たちの間にも、専門家たちの間でも、「どうも『日本書紀』や『古事記』の言っていることにはウソがあるのではないか?」という考え方がかなり増幅してきているようである。それはちょうどバブルの崩壊が起こった1999年あたりから急激に現実味を帯びて来た。つまり大山誠一が学会で聖徳太子は藤原不比等らが作り上げた虚像であると発表した1998年、さらにそれを一般図書として発刊した1999年に、一種、一大センセーションを地味だった飛鳥・奈良時代という日本史の「古代」というジャンルに沸き起こしたことが、やはり画期となったのだろう。

なぜならば、その後学校教科書から「聖徳太子」という架空の人物名が消され、太子ゆかりの寺院だった法隆寺西院伽藍金堂に修復と検証の手が入ったことから想像ができる。大山はさらに太子が籠もって瞑想したと言われてきた夢殿も、また太子を模して作られたという救世観音像も藤原光明子(光明皇后)や行信といった、「長屋王暗殺の祟り」の疫病でことごとくこの世を去った藤原四家の中で唯一生き残った遺臣たちの手で創造された偽物であり、聖徳太子存在を証明してきた記紀以外の書物や遺物・・・法隆寺系銘文のすべても、ことごとく『日本書紀』よりも新しい時代の創作物であり、どれもこれも『日本書紀』という現存する最古の文献資料の記述を補足するような飛鳥時代の遺物ではないのだと論破している。

これに先立って、奈良の長屋王居宅跡から大量の木簡が出土し、大山自身がそれに立会い、木簡の分析に当たることとなった。そこに書かれていたおびただしい食品や資財の数々から、長屋王が当時、藤原不比等をしのぐ権勢を持ち、しかも天武と持統の嫡子という一級の出自からも、長屋王こそが次期天皇候補ナンバーワンだったことが明確になった。その長屋王がなぜか冤罪をかけられて死なねばならなかったか?それがすべての疑義の始まりだった。

■記紀以前に文字も史書もなかったのか?
好事家諸氏の中には、日本には『古事記』、『日本書紀』以前には文字や歴史書はなかったのか?という疑問が当然あると思う。確かに『日本書紀』には蘇我蝦夷宅には「天皇記」「国記」という二つの記録があって、乙巳の変で蝦夷宅が焼かれたとき、あやうく避難させて無事だったという記録がある。『日本書紀』はそれとなく、『日本書紀』の記述はこの二つの由緒ある「蘇我王家」からの「正しい記録」・・・つまり『日本書紀』が頻繁に引用している「一書曰く」の大元の手引書によって書かれたのが『日本書紀』なのだ、だから間違い謎あるはずがないのだ・・・という根本部分の大嘘を挿入しているのに過ぎないことに、千二百年の間、日本の文献学者は気がつかないまま、あるいは「それを言っちゃあ史学は成り立たない」という暗黙のルールを作ったまま、聖徳太子に疑問をさしはさむのは出世できない、という悪しき徒弟制度の尻に敷かれ続けてきた。

文字はあったはずだ。なぜなら隋書が記録した聖徳太子が隋の煬帝に送った国書がある。けれどその国書はすでに中国にない。ところがこの飛鳥時代にあったはずの文字が残されたという聖徳太子直筆の経典(三経義疏さんきょうのぎしょ)や太子ゆかりの天寿国繍帳銘文に使われているいわゆる万葉仮名と平安時代に呼ばれるようになる一音一字の表記方法が実は天武朝直前のころに朝鮮半島で考え出されたもので、飛鳥時代に日本で使われたはずのない表記法だったことがわかった。そのほかいわゆる法隆寺系銘文のすべてが後世の偽物、伊予国の道後温泉に太子が遊んだ話も、その石碑があったはずの時代に伊予へ行った歌人も一切触れておらず、当時そこになかったこと、法隆寺金堂の諸仏のすべてが天智、持統から光明皇后の時代に配置、入れ替えなどが行われたこと、ことに釈迦三尊像光背に刻まれた銘文も新しい時代のもの、薬師如来光背銘文も同じく、さらにはわれわれがよく知っているこれらの仏像の作者である鞍作止利の作品であるということも後世のウソ、ましてそれらが飛鳥時代の作品であるという美術史からの定説も間違いだったこと、三経義疏にいたっては光明皇后にいつのまにか取り入った行信なる僧侶が唐から輸入した7割がた強のセンテンスをそのまま書写しただけであり、太子お手製など真っ赤なウソだったこと、十七条憲法の記述も中国の「ありもの」から書き換えただけの後世の偽物だったことまで、あらわにされてしまった。


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こうしてまず、聖徳太子が藤原一族の作り出した妄想・虚像であることは一目瞭然、全部虚構だったことが明確になるに及び、ではそのほかの『日本書紀』記述も信じられないのでは?となったのである。当然、『日本書紀』の大元になったはずの『上宮記』一云の逸文は蘇我氏の保有していた「国記」だったのだろう。蘇我氏は正しい歴史を伝えていたことは、継体天皇の系譜がただしいことからも創造できる。藤原不比等はまずこの蘇我王家の史書を利用しておきながら、その内容を書き換え、さらに焚書したと考えられる。

■蘇我氏は「母方」王家だった
天皇家が万世一系のものであると書いたのは記紀だけであり、それは藤原氏の中の皇室の話である。『日本書紀』は倭五王と継体大王をはっきりと別系統の王族であると書いている。つまり藤原氏の考える皇室は神武天皇などではなく「あめくにおしひらき」の諡号を持つ欽明大王からだと実は言っている。「あめくにおしひらき」とは「国家を開闢した」人という意味で、つまり天皇家の皇祖であることになる。皇室の祖は神武でも崇神でも応神でも、まして継体でもない、欽明であると書いているのだ。その欽明王朝というのは言い換えればやがて蘇我王朝となった飛鳥王家のことである。

■『日本書紀』も日本の大王は蘇我馬子だと書いている
『日本書紀』推古天皇十八年(610)十月
隋からの使者が宮廷の広庭に入るとき、日本側の四人の重鎮たちがひれふしている。その中に馬子はおらず、いたのは息子の蝦夷たちだと書いている。ほかは大伴氏などである。では馬子はどこにいたのか?最後に大王が登場する。それは蘇我大臣=馬子だったと書いてある。隋の使者は蘇我馬子を大王と見たのである。女帝推古も摂政厩戸もそこには一切描かれてはいない。なぜか?諸説あるが、最も整合な考え方は「二人とも存在しなかった」ではなかろうか?

■天皇号使用は天武以前にはあり得ない
中国で天皇(てんこう)称号が皇帝に使われたのは天智時代の唐の高宗の話である。天武は海人族の交流があって中国の事情に詳しく、これをさっそく取り入れた。つまり「天皇」という言葉は天武が最初に使い、死後の諡号に天皇号を使わせた。その後妻の持統がこれを受けて初めて生きながらにして天皇を称した。ところが記紀は歴代すべての大王が天皇(すめらみこと)だったとしている。すめらみこととは「統べる神」という意味であろうか。

まず倭五王などは天皇・皇室とは別の王家。藤原氏にとっては親分・物部氏を滅ぼした蘇我王家以前の河内のアスカ(シナガ)の流れでもなく、河内の古市の流れである。継体はこれまたまずもってどこの馬の骨かわからない近江高島の小族・三尾氏から出てくると書いた。

■継体は葛城氏出身か?
系図を見てもわかるように河内王朝は武烈で終り、代わって継体が擁立されるが、大和の旧氏族の合議で擁立されたはずなのになかなか大和に入れない。結局淀川流域である。ところがなぜか葛城氏のいたかつらぎ地方南部の紀ノ川河口に唐突なほどのえにしある鏡が出た。鏡などいくらでも作れる。この鏡もベースは画像鏡のコピーを用い、そこに志麻の銘文がある。紀ノ川河口の淡輪(たんのわ)古墳群は大王クラスのもので、ここには紀氏という大豪族がいた。ここの大王は紀氏と葛城氏によって擁立されていた倭五王時代5世紀から6世紀の大王である。そして淡輪技法で作られた土器が、やはり紀氏に縁の深い場所となった京都の桂地方でも出土する。この土器は継体大王の陵墓のために作られた。つまり淀川の継体と紀ノ川沿線の紀氏・葛城氏にはもともと深い関わりがある。そうすると画像鏡が言う、大王になる前の孚弟王(男弟王?)がすでに和歌山の隅田近くにいたという銘文は、にわかに信憑性を増すことになり、継体は倭五王の別系統と親戚関係にあったともなってきて、『日本書紀』の息長や三尾以外の血脈が浮上してくるのである。琵琶湖沿岸の位置関係からして、まず東岸奥地の息長系は考えられない。息長系という説は、のちに息長系の姫が皇后になったせいであり、その後この系譜は消えていく。第一、息長氏の本拠地である琵琶湖東北部にはさほどの古墳も遺物もない。あるのは西側の高島地方である。ここに鴨稲荷山古墳がある。しかし三尾氏はあくまで継体の母親の出身氏族で、父方はよくわからない人物。ここは創作だろうと思われる。というのは継体は蘇我王朝の出身である石川で葛城氏系だったと考えられるのである。それだからこそ、ふたりの皇子とともに藤原氏の『日本書紀』系図では断絶し、雄略~春日氏系の異母弟・欽明からが皇祖となる。つまり継体系譜は中継ぎであり、結局捨てられるわけである。ここはいわば二度目の皇室系譜の断絶と言える。
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春日氏の娘である手白香姫の子である欽明は、藤原氏から言わせれば春日系の同族の外戚参入の前例となる。もっとも春日氏は中臣氏が継体時代にいわば、その外戚関係を取り込むために一方的に摂津三嶋で吸収してしまったのだろう。そもそも藤原氏が春日大社を氏神としたのも乗っ取り、祭祀の吸収合併からだろう。

このように天皇、皇室は決してひとつではなかった。ひとつになるのはやはり大化の改新以降の藤原不比等時代からである。

■推古女帝の存在はあまりに唐突
藤原氏の時代には持統に始まる女帝はことごとく「つなぎ役」である。病気がちな皇太子が夭折したときの代打として登場する。そして斉明や持統の登場には、中国にちゃんと則天武后というほぼ同時代の前例がある。ところがこれから中国に国書を送り、おつきあいを始めて、結果的に中国の律令と仏法を取り込もうとしている聖徳太子の飛鳥時代に、天皇が女帝などという中国の儒教思想に棹差すような大王選択など絶対にあり得ないことである。
そもそも『日本書紀』は太子が仏法を遵守し、仏教に従って国家を樹立したと言っておきながら、『日本書紀』の年号はずべて従来の道教的な干支表記しているのである。にも関わらず法隆寺については勝手な年号であった「法興」を使ってみたりする。法隆寺は元来、飛鳥にあるから飛鳥寺であり、法隆寺は仏教導入に伴って漢音が取り込まれた。ところが法興寺などという呼称は『日本書紀』にしか使われていない。


つづく